一色義清自刃の処

付近住所 京都府宮津市鶴賀 一色稲荷社


 丹後守護職一色氏は南北朝末明徳3年(1392)正月に補任された満範をもって第一代とする。その後若狭武田氏にその職を奪われたことはあったが、7代義有(1500前後)のころまではその実名を明らかにすることができるその以後の事情は頗るわかりにくい。
 近世後期の地誌である「丹哥府志」にいう「一色義清の墓」と、幕末期宮津城図に記載されている「一色稲荷」とは同じものであろうが、その義清なる人物を確定する史料はない。「細川家記」その他近世軍記物によると天正10年(1582)9月8日、一色氏の当主-細川藤孝の娘むこ-が宮津細川家臣の屋敷で、細川忠興方の手で謀殺されるという大事件があった。細川方の記録類で米田屋敷、「丹州三家物語」で有吉屋敷というが、何れにしても現一色稲荷か、その付近と思われる。
 「丹哥府志」はその復讐戦に義清を登場させるが、細川方の記録類は一切そのことにふれない。ちなみにその当主の名は義有、満信、義俊、義定さまざまに伝えられているが、何れにしても、謀略に倒れた一色氏の怨霊に対するおそれが、長く城郭内のこの地に鎮魂の社を存続させたものであろう。