百地丹波守城

別名 百地砦 付近住所 三重県伊賀市喰代 現在- 
2009/8/17 碑・案内板アリ 日本城郭大系


百地氏  百地氏は伊賀流の忍者、百地丹波守が有名ですが、史実としてはほとんどわかっていません。しかし、天文13年(1544)の史料に「喰代もも地殿」と見えることから、戦国時代には北伊賀地域の有力な土豪として知られていたようです。
 百地氏城跡に代表される土塁や堀で防御施設を設けた中世城館跡は、市内に250ヶ所余りあります。その中でも喰代・蓮池地区は、中世城館跡が数多く分布する地域で、周囲には安場氏城館跡や奥氏城跡・上山氏館跡など十四ヶ所の中世城館跡が確認されています。
 この城跡は丘陵の尾根を利用してつくられたもので、最も山寄りの郭(くるわ)から現在の青雲寺まで含めると、長さ250m、幅は最も広い所で60mで、市内でも有数の規模となります。城跡の構造は、尾根を削平してつくった郭を連ねたように配置したもので、四つの郭(左図郭A〜D)が段々に形成されています。この中で郭Cは70×40mと最も大きく、四方に土塁を築いているほか、南側に自然地形を利用した堀、東側には堀切があります。また周囲に郭Cを防御するための郭(左下図、郭T〜W)を設けたり、進入路を屈曲させるなど防御の工夫を凝らしていることから、百地氏城跡の中心部(主郭)と考えられます。
 主郭を巡る土塁は北側・西側・東側の土塁の外側は崩れが著しく、工事により保護されていますが、内側はよく残り、当時の様子をうかがうことができます。南側の土塁は一部がなく、また他の土塁と比べて低いことから当時は塀があったのかもしれません。東側の土塁は主郭の中で最も高く、土塁の上が広くなっていることから、かつては見張り台のようなものがあったと考えられます。また主郭内には幅1m余りの溝があります。これは、当時郭内を区画した痕跡と考えられます。

 戦国期(1500〜1600)に伊賀忍者の二大巨頭の一人として鞆田村の藤林長門守に拮抗して南伊賀に勢力を張っていた伊賀流上忍百地丹波守はこの地を根拠地としていた四囲の土壁は天然地形に若干の人工を施しているが天然密室を形造っている。
壁内の廣さは約三百坪、この中に三太夫の館はもとより忍者の集会所家人どもの住居もびっしりと建てられていたのだ。
天正9年伊賀の乱(織田信長の伊賀攻略戦その時百地丹波守は最後にはその分城近くにある名張郡柏原村のとりでに籠り城開城とともに行方不明になっている)の際自ら焼き放ったものと考えられるが今は全く跡形もなくなっている。
砦の近所の百地家菩提寺青雲禅寺には喰代百地家代々の墓がある外、本覚了誓禅門の名をのこす過去帳があり藤林と百地は同一人ではないかと言う疑いを濃くしている。
 百地家の家紋
家紋は、七曜星に二枚矢羽根、矢ちがい矢羽根紋よりして、百地氏が服部族の出であることは、明らかであると思われる。

                         

         


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