冠山城

別名-  付近住所 岡山県岡山市下足守 現在-
2009/4/11 碑・案内板アリ 日本城郭大系


林三郎左衛門 冠山合戦を偲ぶ
 天正10年4月17日冠山城は、織田軍2万、宇喜多勢1万に囲まれ、下足守の山や谷は陣馬で埋まった。守りは城主林三郎左衛門、祢屋七郎兵衛、松田左衛門尉、鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木與五郎、難波惣四郎、岩田多郎兵衛、権寂和尚、祢屋與七郎、佐野和泉守、守屋新之丞、祢屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など3百騎、総勢3千6百人で、羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。
 城内より打ち出す銃火ははげしく、また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。4月25日不幸にして城内より出火し、火は燃え拡がり城中大混乱となった。城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木與五郎、難波惣四郎、権寂和尚など将兵139人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた。加藤清正一番乗りの功名話、荒武者竹井将監が加藤清正と激闘ののち戦死したことなど激戦の状況が戦史に詳しく伝えられている。
 小山ながら難攻の冠山城も遂に落城した。林三郎左衛門は行年51才、備中の国を半国与えようという羽柴秀吉の誘いをも断わり、毛利並びに小早川隆景に義を貫いた。武士道に徹した冠山の城主及び将兵を心から称えたい。