洋之助は、紡績で社長になり、社内を営業のみならず、管理まで押さえ込んだ。しかし紡績の社内は、長い間父の洋次郎が、愛の会社と云われるほど、公明正大な手法で経営していた。洋次郎は、純子から言われた「会社は利益を出すための組織ではない。人に雇用の機会を与え、人に社会に、役立つものを作っていくための組織なのだ。利益は、会社が存続するのに必要なものに過ぎない。人を愛し、社会を愛して、色々な人の意見を聞き、お客様や社員に利益を還元していきなさい。」と言われた事を正直に守ってきた。洋之助は、紡績が利益を維持できるように、色々と工夫していた。成果も上げてきた。頑固な社内を説得するよりは、自分の思い通りになる子会社群を作り、それを通して、紡績に利益を還元したり、利益調整できるようなシステムを作り上げた。ただ洋之助は、子会社群を作る時に、自分の管理会社や子供たちの管理会社そして子分たちの管理会社も巧みに入れて、一種のさや抜きみたいな事も、時にはした。洋之助には、守るべき子分もいたし、金になる事には、嗅覚の利く、古いタイプの人間でもあった。それらの会社も、結果的には、紡績に利益を還元した。洋之助の運営で紡績の利益は安定した。それは誰も実感していた。しかし紡績社内では、洋之助に対して、一種の不透明感を感じる人たちがいた。洋之助の存在感は圧倒的だったが、時には抵抗も示したくなり、相見積もりを提案したのだった。事務用品については、直ぐに購入費も結局安くなり、相見積もりの話も出来なくなったが、オフィスサービスではもっと安い所があると思った。
俊子はオフィスサービスを決して、ビジネスとしては考えていなかった。いわば一種の武者修業のつもりだった。ホテルの掃除やクリーニングだけをしていても、客は単なるサービスなので、文句を言う人はそんなに多くはない。それをお金を貰う形で、展開すれば、そのサービスに対しては、流石に評価は厳しくなると考えた。冶部ホテルのサービス部門を独立させ、そのサービスだけを売り物にして、多方面からの評価を受け、最後にホテルのサービスを最高のレベルにしようと始めたものだった。せこいさや取りなんか考えたものではなかった。
基礎となる人件費は、多くはホテルが持ち、サービスの質の向上を図ったものであった。そのため、紡績や商会そして化学などの限定的な会社だけを対象にして、オフィスサービスをしていた。いわばクリーニングや掃除のプロ集団が、そのサービスを外部に見せる事が、オフィスサービスの目的であった。それは外部からの客の多い、商会や化学などでは評価され、ホテルの評判は上がり、新規顧客も取り込む事も成功した。紡績は本当の意味で親会社とも言える存在だったので、特に注意して丁寧な掃除をするように言っていた。紡績自身は、社員自身の掃除も徹底していたが、所詮素人の掃除であった。オフィスサービスのクリーニングには圧倒されたが、やはりもっと安い所もあるような気がして、頼んだものだった。洋之助は、軽くいいよと言ったものの、所詮さや取りと思っていたので、いささか慌てて、得意の裏工作も考えたが、俊子に聞くと俊子は平然として、客観的な評価はいい事です、同じサービスで比較して貰えばそれでいいです。と言っていたので、ヒヤヒヤしながらも、同じサービスを前提で相見積もりをさせた。相見積もりの業者も、依頼されたサービスを見せられて、思い切った安値を出したが、それでも高かった。俊子のオフィスサービスは、商売前提の計算ではなかった。洋之助も面目を保った。しかし時代は、洋之助のようなやり方には、段々厳しくなってきていた。それは洋之助も感じていた。
俊子は、基本的には、洋之助の手法を受け継いだ人間ではあったが、洋之助とは違い、あくまでホテルの企業価値を高める事に主眼をおいていた。洋之助と違い、相当大きな資産を受け継いだ強みであったのかもしれない。目先の利益に捕らわれない姿勢が強かった。ここで、洋之助は、俊子の経営姿勢に相当の評価を下していた。それでも俊子の姿勢は、所謂、老舗の女将風と思う事もあったが、今はそれが必要かもしれないと思う洋之助であった。
その後、オフィスサービスは冶部サービスとなり、最高のサービスや最高のホテル備品を提供する会社となり、汎用性はむしろ捨てて、限定的な場所だけを対象としていった。洋之助は、事務用品部門については、いつしか洋之助の子分たちも入れて、一族の会社のみならず、営業窓口を広げて、業務用の事務用品を提供する会社へと変えていった。何時の間にか大きな事務用品の会社になっていった。