Wanderer

逃げた。

里から。あの人から。
自分の気持ちから。

逃げて、逃げ捲くった。

自分が二度と戻れないように。あの人を傷つけてしまわないように。

心にはじめて芽吹いた思いは、受け入れてもらえた喜びに幸せの花を咲かせた。
肌を重ね交わる度に花からは甘美な蜜が滴り落ちた。
だがやがてその花弁は毒だった事を知る。
あの人が誰かに微笑みかける度に。
あの人の中に大事なものは沢山あるのだと思い知らされた。

嫉妬という毒の花粉が自分を蝕んでいく。

それを止められなかった。

里や子供達や。あの人には裏切れない大事なものが沢山あって、天秤に乗せてみても自分に傾かない。
同じ天秤で計るものじゃないと平然と言うあの人を俺は憎んだ。何度も乱暴に組み敷き蹂躙した。
それは次第に拷問にも似たものになり、気づいた時あの人は血を流しながら気を失っていた。

俺は恐れ戦いた。

いつか俺はこの人を殺してしまう。
この愛しくて、誰よりも幸せになって欲しい人を。

だから。

俺は逃げ出した。
逃げるしかなかった。

左目は抉り取って、傷ついたあの人の傍らに置いてきた。せめてもの罪の贖いの為に。
逃げて逃げて。それでも死にたくなかったのは、一秒でも長くあの人を想っていたかったから。
せめて。こんな自分でも、目蓋の裏にあの人の笑顔を思い浮かべるくらいは許されるだろうと。
浅ましくもそんな気持ちで。

もうどれくらい逃げ続けただろうか。
写輪眼がなくても闘えるといっても、長過ぎる逃亡生活に体の方は限界だった。

次に追っ手や敵忍にあったら駄目かもしれないな。

今はもう思うように動かない体を木に寄りかからせ、そっと目を閉じる。
目を閉じるとすぐに浮かぶのはあの人の姿だ。はじめて、愛しいと思った人。
彼が満面の笑顔で俺を呼ぶ。

「カカシ先生、」

鼓膜を震わせる確かな声に、俺はハッとして目を開けた。

そんな馬鹿な。

目を開けたはずなのに、愛しい人の姿が消えない。これはどういうことなのか。
茫然とする俺の前で、黒い括り髪のその人は憮然と言った。

「どれくらい探したと思ってるんです?」
「そんなにボロボロになって。酷いもんですね。」
「心配かけてごめんなさいくらいいいやがれ、馬鹿野郎」

矢継ぎ早に怒鳴られても、俺は何の反応も返せないでいた。まだ何だか信じられなかった。幻ではないのかと疑っていた。すると黒い髪を揺らしながらその人は近付いてきて、ギュッと俺の体を抱き締めて、耳元で呻くように言った。

「お陰で俺も抜け忍だ・・・畜生」

伝わる体温は幻なんかじゃなくて。
この手を振り解かなくちゃと思いながらも、きつく抱き返している自分がいる。

「イルカ先生、あんた、馬鹿ですねぇ・・・」

ようやく口にした俺のあんまりな言葉に、いつもだったら言い返す愛しい人は肩を震わせるばかりで今は声もない。
目が滲んで見えないのは腕の中のこの人が眩しすぎるせいだろうか。

胸にもう一度着床した思いはどんな花を咲かせるのだろう。

瞳から零れる滴を受けて、新たな芽が息吹いていた。

 

終わり

 

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