「海と毒薬」



打ち寄せる白い飛沫が湾曲した砂浜を静かに食んでいた。
その境界をカカシは歩いた。
波はあたかもカカシに触れる事を忌避するように、届くぎりぎりのところで砕けては引いて行く。
生きとし生けるものは全て最後は海に還って行くのだと誰からか聞いた事があるが、
それすらも自分は拒まれている気がして、カカシは皮肉に口元を歪めた。
くだらない感傷だ。俺らしくも無い。
そんな感情は当の昔に失くしてしまったものだ。
いや、ひょっとすると自分は感情というものを母親の腹の中に忘れてきてしまったのではないかとすら思う。
それなのに。
俺はどうしてこんなところを歩いているのだろう…
カカシは苦しいほどに碧く光る海にちらと目を遣った。
かつて戦場だったこの場所は、敵と味方とが流した血に陰鬱に黝ずんでいたというのに。
海の持つ浄化の力にカカシは嫉妬の様なものを覚えた。
人を殺める事に恐怖や罪悪を感じた事は無い。
だが自分の血塗られた手を、身体を、醜悪だと感じる気持ちはあった。
その汚れは何時まで経っても洗い流す事ができない。
多分一生。
だがあの人ならどうだろう…
カカシはふと海の名前を戴く彼の姿を思い浮かべた。
彼は抱く。その腕の中に、彼の両親を殺した妖狐を宿した忌子を、愛しげに。
憎しみをも浄化して。
カカシが苦しさを覚えるほど、澄んだ心を輝かせている。
彼ならば。
海すらも拒む、汚れた自分をも受け入れてくれるのではないか、そんな浅ましい考えが一瞬頭を過ぎり、カカシは自嘲した。
虫のいい話だ。
十年前戦争という大義名分の下に、この先にあった、敵の部隊の諜報活動の足場であった小さな漁村を、木の葉の部隊は蹂躙し尽くした。
戦う術を持たない村人達は白旗を上げ降伏してきたというのに。
血に狂った部隊はそれを無視した。
あっという間に辺り一帯は地獄絵図と化した。女は犯され、男は松の木に縛り付けられ、生きたまま腹を裂かれ悪戯に嬲り殺された。
子供や赤子にも容赦はなかった。刃で切り刻んだその柔らかな肉を頬張る飢えた者すら存在した。
流されずに済んだ筈の血を浴びて、カカシは自分が「ひと」ではなくなった気がした。
自分だけではない。あの時。あの場所にいたものは誰ひとりとして「ひと」ではなかった。
それなのに戦争が終わり里に戻った途端、皆普通の「ひと」の顔になって、自分の幼い娘に虫を悪戯に殺す事の罪を説教していたりする。
裁く者は誰も無かった。
罪は確かに在ったのに。
自分だけが戻れない。
そう、自分はかろうじてあの瞬間までは「ひと」のつもりだったのだ。
人を殺す事に恐怖や罪悪を感じなくても。
自分は「ひと」であると。
その境界は足元に打ち寄せる波と同じように、ぎりぎりのところにあったのだ。
…俺はそれを越えてしまった…
「ひと」ではなくなった自分が何になるのか、カカシはそれが恐ろしかった。
ただその事だけが酷く。
今この地を訪れているのは、自分の中に「ひと」としての何かを見つけたいのかもしれない。
この後カカシにはまた長期に渡る戦場での任務が待っている。
自分の手によって、また大量に命が消えていくだろう。そして自分もどんどん「ひと」から乖離していく。
そうなる前に、何か…良心の欠片のようなものを。
もし見つける事ができなかったら、と考えながらカカシはポケットの中の小瓶に無意識に触れた。
その時踏み締める砂浜の向こうに、誰か人影が立っているのが見えた。
カカシは驚きに目を見張った。
瞳が捉えたその姿は先ほどカカシが脳裏に思い浮かべた姿だった。
「……イルカ先生、どうしてここに…、」
尋ねる声が思わず震えた。
こんな辺鄙な場所で偶然行き会う可能性は無いに等しい。
ひょっとしたら彼はここで何があったか知っているのだろうか?
そう考えてカカシは動揺した。
彼に…イルカに全てを知って受け入れてもらいたいと思いながら、知られたくないという思いもあった。
きっと澄んだイルカの心は、汚れた自分を拒絶する。
幾ら人を殺しても、恐怖も罪悪も湧かなかったのに。イルカに軽蔑される事が何より怖かった。
イルカは打ち寄せる波の音の様に静かに言った。
「カカシ先生の様子がおかしかったから…後をつけさせてもらいました…
この場所で木の葉の部隊が何をしたのか、俺は知っています…その時の隊員のひとりが話をしてくれたんです…
…そいつも懺悔をしたかったのかもしれない…ひとりで胸に溜めておくには重過ぎる話だから…確かにその時の木の葉の部隊の行動は間違っている…だけど、『ひと』は間違いを正す事ができる…そうでしょう?」
イルカはカカシの目の前へとやって来ると、きっぱりと告げた。
「今度は間違わないで帰って来てください、」
真っ直ぐにカカシを見詰めて。
「…それでもまた間違ったら…その時は俺が説教して差し上げます、」
イルカはにっと笑うと、突然ポケットに突っ込まれたままのカカシの右手を力任せに引っ張り出して、その手に握られた小瓶を奪い取った。
そしてそのままそれを、思いっきり、海の遥か遠くへと投げ捨ててしまった。
小瓶はきらきらと美しい輝きを放ちながら放物線を描き、波の間へと消えていった。
あっという間の出来事だった。
「もうあんなもの必要ないでしょう、」
イルカは悪びれた様子もなくそう言った。
確かにあれはもういらない。
抗議の声を上げるでもなく、カカシはそう思った。
さがしていたものが見つかった。見つからないと思っていたのに。
何度境界を越えてもこの人がいる限り、自分は戻って来れるだろう。
カカシの足元を何時の間にか打ち寄せる波が濡らしていた。