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カカシ先生が…俺の事を好きだって…?それじゃあ、

イルカは茫然とカカシの鼻先から氷柱の様にたりんと垂れる鼻水を見詰めた。

それじゃあ、俺はこの鼻水を拭ってやってもいいのかな…

震える手でポケットの中からハンカチを取り出すと、イルカはグイと思い切ってカカシの鼻水を拭った。
「イルカせんせひ……」
カカシが驚いた表情を浮かべながらも、条件反射的にちーんと鼻をかむ。
ああ、カカシ先生だ、とイルカはホッと息を吐いた。

俺のカカシ先生だ…

途端にジワッと熱いものが込み上げてきて、イルカの心を一杯にした。
カカシはハンカチの先で戸惑った表情を浮かべている。オドオドと自信なさそうに。その瞳はまだ大洪水のままだ。

涙もどうにかしてあげなくちゃ、

だけどハンカチは鼻水塗れだ。さてどうしたものかと考えながら、イルカはそっと手を伸ばし、止まらない大きな滴を指先で拭ってやった。カカシはやはりどうしたらいいのか分からない顔で、暫くされるがままになっていたが、そのうちおずおずとイルカの手に鼻先を擦りつけてきた。

子犬みたいだな…

イルカが思わず笑顔を浮かべると、カカシが躊躇いがちにチュッとイルカの手に口付けた。
恐る恐るイルカを見詰め、嫌がっていないか様子を窺う。イルカは自分の手を自らカカシの唇に押し当ててそれに応えた。カカシは一瞬ビクリと体を震わせると、すぐさま猛烈な勢いでチュッチュと夢中に口付けてきた。一生懸命で可愛い。

だけど、もっと違う場所に口付けが欲しい。

「カカシ先生、俺…」
イルカが空いた方の手でカカシの背中を抱き寄せ、その耳元で告白の返事をしようとした瞬間。
恐るべき事実に気付いてぴきんと固まった。
ふと見上げた天井でサーと首を振る扇風機。七色の吹流しは隣の席の同僚がつけたものだ。
そうだった。ここは…!

あわわわ!!!!…うっかり忘れていたけど、こここ、ここ受付じゃねえか――――!!!!!


一人冷静になったイルカが慌てて体を離そうとすると、カカシが子供の様に嫌々をして絶対に離そうとしない。
イルカに抱き寄せられて、箍が外れてしまったようだった。
「カカカ、カカシ先生、ちょ、ちょっと離れてください…!」
自分で抱き寄せた事は棚上げで、イルカがぐいっと体を突っぱねる腕に力を入れると、
「嫌です!」
カカシがべそっと涙を零す。
ぐいっ べそ
ぐいっ べそ
ぐいっ……
埒が明かない。
それどころか、カカシはむぎゅうううとむきになってイルカに抱きついて、
「好き……好きですイルカ先生…大好き…!先生は…?イルカ先生は俺の事好き…?」
大声で返事を強請ってくる。イルカは大いに焦っていた。

こ、こんな…こんな…

「こんな人目のあるところで言えるか―――――――――!!!!!!!!」
イルカが渾身の力を込めて、ていっとカカシの体をうっちゃった瞬間。開けた視界に目が点になった。
なんとイルカの前で長蛇の列を作っていた人々が、全員床の上に昏倒していたのだ。折り重なるように倒れるその姿はまるで人間ドミノのようだった。よく見ると、受付に居合わせた全ての人々が倒れている。イルカの同僚ですら例外ではない。カカシの背に隠れていて気付かなかった。道理でやけに静かだと思った。

な、なななな、なんだ…!?一体何が起こったんだ…!?

驚愕するイルカの瞳に、もぞりと動く人影が映った。
イルカの受付の同僚の一人だ。口の中を切ったのか唇の端から血を流している。何があったのか、ただ事ならぬ雰囲気だ。同僚の顔にいつもかけている筈の眼鏡はなく、手を彷徨わせてその在り処を探している。何故か同僚の眼鏡は持ち主から遠く離れた床の上で、レンズを粉々にさせて転がっていた。フレームは歪な形にひしゃげている。
「だ、大丈夫か…!?い、一体何があったんだ…!?」
イルカが同僚に駆け寄ろうとすると、カカシが腰にすがり付いてそれを止めた。
「幾らあの男が近眼で乱視でも、近付いたら…ち、乳首とか…っ見えちゃいます!そ、それともあの男が好きなんですか…?あの男にだったら見せてもいいって思ってるんですか…!?」
不穏な空気を纏いながら、カカシがえぐえぐと涙を零す。
「はあ…?」

何の話をしてるんだ…?ってか、なんでそうなるんだ…?

イルカが首をかしげていると、
「俺は見てませんから…見ませんから…!ゆ、許してください…!イルカも俺に近付かないでくれ…っ」
突然眼鏡を探していた同僚が、ひいいと悲鳴を上げ、その場に体を丸めてうつ伏せた。何をそんなに怯えているのか分からないが、きっと受付所を襲った恐ろしい出来事に錯乱しているのだろうとイルカは判断した。

しかし、受付所が大変なことになっているのに…それに気がつかなかった俺って一体…カカシ先生も気がつかなかったのかな…?

イルカが不思議に思うのも無理はなかった。
実は受付所に居合わせた人々を昏倒させたのはカカシだった。イルカの裸を誰にも見せたくなかったのだ。写輪眼全開で瞬殺だった。唯一眼鏡姿の同僚だけが、眼鏡を飛ばされるくらいで済んだのだが、その際カカシの阿修羅の如き殺気をぶつけられて、精神的に深い傷を負った。密かに昏倒させられていたほうがマシだったと涙したほどだ。
「イルカ、今日はもう受付はいいから…帰ってくれ、」
同僚はうつ伏せのまま切々とイルカに訴えた。
「ええ…!?だ、だって、この倒れた人達はどうするんだ…!?」
「後の事は俺が何とかするから…今日のところは何も聞かないで…帰ってくれ、ついでに服も着てくれ…頼む…!」
涙ながらに懇願されて、イルカは合点がいかないまでも頷くしかなかった。
「か、帰るなら、これ…」
カカシが急いで自分のベストを脱いで、ランニング姿のイルカに被せる。
それを着て歩き出すイルカの後ろを、
「あの…イルカ先生、返事は…」
もごもごといいながら、カカシがとてとてとついてくる。その顔がオドオドと何処か自信無げだ。
そんな顔を見ると、今すぐこの場で答えてやりたくなってしまうが、正直返事は家に帰ってからにしたいところだ。

だって、この人大泣きして好きだと喚くに決まってるだろ?
それにこんな道端じゃ、キスの一つもできないじゃないか。

それなのにカカシはコンビニの前まで来ると、
「あのう…俺のうちこっちなんで…」
信じられない事を言った。
イルカは呆れたようにカカシを見詰めた。

さっきはあんなに好きだと大声で叫んで張り付いていたくせに。
図々しいかと思えば、変なところで臆病なんだ。

「何言ってんですか…」
イルカはふうと溜息をつくと、カカシに向かって手を差し出した。
「あんたの家はこっちでしょう、ほら、」
一緒に帰りますよ。
そのままカカシの手を取って、引っ張るようにして歩き出す。
カカシは瞬間ぽかんとした顔をして、次に蕩けそうな笑顔を浮かべたかと思えば、最後はやはり大泣きだった。
カカシはイルカの手をギュウッと握ると、
「俺変なんです…キスとかしてなくても…イルカ先生と一緒にいるだけで、天使がラッパを吹く音が聞こえるんです…!とってもいい気持ちになるっていうか…」
ほら、今もこの辺で聞こえてる、と空中にくるくると円を描きながら、えへへと幸せそうに笑う。
イルカは瞬間顔を真っ赤にさせて絶句した。

本当にこの人は時々すごい事言うな…

熱くなった頬を擦るイルカにも、一際高らかに鳴り響く天使のラッパの音が聞こえていた。

終わり