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イルカは毎晩遅くまで根を詰めて残業した。
帰宅した後もシンパからの貢物に全てに目を通し、丁寧に断りの返事を書いた。
目蓋が自然と落ちてくる体力のギリギリまで雑用をして、気絶するようにベッドに倒れ込む。
このところ、ずっとそんな調子だ。暇だと碌な事を考えない。だからこれでいいのだとイルカは思った。
だがそんな無理が続く筈もなく、溜まる疲労にイルカの注意力は散漫になってくる。
だから、避けられなかった。
ばしゃり。
アカデミーの二階から突如として降って来たバケツの水を、イルカはもろに被ってしまったのだ。
まるで一昔前の漫画かコントのようだ。バナナの皮に滑って転ぶのと同じくらいベタだ。しかも有りそうで有り得ない。
そんな間抜けな光景、イルカは実際にお目にかかった事など一度もなかった。

それを自分で体験するとは…俺としたことが…!

物凄く恥ずかしかった。忍びとしてどうかとイルカが顔を赤くしていると、
「す、すまんイルカ、下に人がいるとは思わなくて。」
二階の窓から申し訳なさそうな顔をした知人がしきりに頭を下げていた。イルカは苦笑しながらも、
「俺だったからよかったものの、性質の悪い奴だったらどうするつもりだったんだ?もう二度とこんな物臭な真似するなよ、」
アカデミーの教師の顔で知人をやんわりと窘めた。
「ああ、本当にすまん、」
項垂れ深く反省した様子の知人に、
「まあ、今日は暑かったから丁度良かったかな、」
イルカはわざと真夏の太陽を仰ぐような仕草をして、ぺろりと舌を出しながら冗談めかして笑って見せた。
たらしのエリートは野郎相手でも心配りが憎い。そこがイルカの周囲に自然と人の集まる所以だが、勿論本人は無自覚だ。漸くホッとした表情を浮かべる知人にイルカはその場を後にした。腕時計にちらと視線を走らせ俄かに表情を曇らせる。受付のシフトの時間ギリギリだ。

急がなければならない。

とはいえ…酷い有様だよなあ…

イルカは自分の惨状に溜息をついた。水を吸った忍服は鉄製の鎧の様に重く、その下のランニングは素肌に隙間なくべったりと張り付き何だか気持ちが悪い。ぽたぽたと髪の先から零れる滴を拭いながら、イルカは濡れた服をクンクンと嗅いだ。少し雑巾臭い。

でも、シャワーを浴びる暇も無いし、今日は着替えも置いてないし…仕方ないよな。
まあ、この濡れ具合なら今は夏だし日当たりのいい受付の事だ…すぐに乾いちゃうだろうし…大丈夫だよな。
多少の雑巾臭さは勘弁ってことで、

イルカは勝手に結論付けて、濡れた姿のまま取り合えず受付所へ向かった。交代を待つ同僚がじりじりとしているに違いない。皆も自分の所為で残業の日々で、このところ疲れ気味なのだ。些細な事で殺気立っている。
「遅くなってすまん!」
イルカが受付所の戸を開けると、既にそこにはイルカ待ちの長蛇の列ができていた。夏の湿度と人いきれでむんむんとした受付は不快指数200%だった。受付に座る同僚は案の定、苛立った表情を浮かべ待ち構えていた。その目の下にはくっきりと隈ができている。
「イルカ、遅いぞ…!」
文句を言いかけた同僚がうっと息を呑む。
「ど、どうしたんだイルカ…?びしょ濡れじゃないか…!」
まずはちゃんと拭けとイルカにタオルを寄越すと、
「それになんだか臭いぞ…」
同僚は眉間に皺を寄せながら、こっそりと耳打ちした。
「え…?そ、そうか?」
そんなに臭うのかとイルカはクンクンともう一度自分の体を嗅ぐ。

いわれて見ればすごく臭い気がする…人相手の受付でそれは不味いよな…

イルカは意を決すると、手早に濡れた上着を脱ぎ始めた。
「お前悪いけどアンダーか何か貸してくれよ、替えが無いんだ。」
ベストのジッパーを下げながらイルカが声をかけると、
「お、おい、イルカ…」
何故か同僚がおろおろと動揺し始めた。
ごくりと喉を鳴らす音があちこちで上がっていた。幾重にも重なる熱くねっとりとした視線がイルカの体に絡みつく。
しかしいつも色めいた視線で見詰められているイルカはその視線に鈍感になっていた。今日は殊更視線を感じるなあ位の感覚しかない。しかも男として極めて普通の感覚を持ったイルカは、裸の上半身を晒す事に何の衒いもなかった。そんなもの感じていては、アカデミーで水泳は教えられない。それは当たり前の事だ。
受付所は俄かにストリップ劇場のような怪しげな雰囲気に包まれていた。イルカを止めてやりたい同僚達はしかし「止めたら殺す」という無言の重圧に縫い止められ、微動だにする事ができない。同僚達は冷や汗を流しながらイルカが裸になった時の事を思い戦々恐々とした。

理性の箍が外れ獣と成り果てた忍がイルカに一斉に群がる、身の毛も弥立つ様な光景。それが現実のものになろうとしていた。一種異様な興奮と緊張の中、イルカは平気な顔でベストを脱捨て、アンダーから首を抜いた。
濡れたランニングはイルカの肌にペッタリと張り付き、イルカの乳首の形を卑猥に教えていた。その小麦色の色さえも少し透けて見える。ゴクリという音と共にハアハアと激しい息遣いが受付所を一杯にしていた。室温はこの夏一番の高さを記録している。
それでもイルカは呑気だった。

後はランニングを脱ぐだけだ。

イルカがランニングの端を掴む。受付所の興奮はクライマックスに達しようとしていた。
だが次の瞬間。誰か別の手がぐいっと物凄い力で、シャツを脱ごうとするイルカの手を押し止めた。
「脱いじゃ、駄目です…」
よく知った声にはっとしてイルカは顔を上げた。
瞳が捉える豊かな銀髪に息が詰まる。
「…カカシ先生。」
何時の間に。どうしてここに。イルカは尋ねようとしたが言葉にならなかった。
だってカカシが泣いている。晒された右目からぼろぼろと大粒の涙を零して。子供の様にしゃくりあげながら泣いているのだ。鼻水も出ているのか、口布の鼻の部分だけがぐっしょりと濡れて布の色を変えている。

拭いてあげたい、

咄嗟に片手をポケットに突っ込み、ハンカチを掴んだところでイルカはぐっと堪えた。

それは俺の役目じゃない…

ポケットの中で握られた拳の中で、ハンカチがくしゃくしゃになるのを感じた。同じくらいイルカの心の中も乱れていた。どうしたらいいのか分からない。カカシは泣きながら、ぐいぐいとひたすらイルカのシャツを下へ引っ張っていた。
「脱いじゃ駄目です…裸は…大事な人にだけ見せるものなんでしょ?だから脱がないで…、」
その言葉にイルカは大きく目を見開いた。言った。以前確かにそんな事を。

でもだからって、何でカカシ先生が泣いて…?

訳が分からなかった。イルカが首をかしげていると、突然カカシが大声で叫んだ。
「俺の前でしか脱がないで…!」
ビクリと震えるイルカの体にカカシがギュッと縋りつく。
「誰か他の奴に…見せないで。…好き…好きなんですイルカ先生の事が…好きなんです!」
泣きじゃくるカカシの瞳は未曾有の大洪水を見せていた。

続く