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カカシが自分の家へ戻ってからというもの、またイルカの周囲はイルカを狙う熱狂的シンパで騒がしくなっていた。
イルカは自分の机の前に出来た長蛇の列を見遣って、心の中で溜息をついた。
特に受付の繁忙期でも無いのに報告書を出す輩が殺到し、イルカの前だけ大いに賑わっている。

最近受付所で俺の前に、こんなに人が並ぶ事もなくなっていたのにな…

自分に集中する秋波をひしひしと感じて、イルカはまた一つ心の中で溜息をつく。

俺ってこんなにもててたっけ…?以前はこんなにあからさまじゃなかった気がする…なんか急激な熱の高まりようだよな…

まるで他人事の様に考えながら、
「任務お疲れ様です、」
イルカはニコニコとお愛想笑いを浮かべ、報告書にさり気なく貼られた艶めいたメモ書きを足元のダンボールに落としていく。
任務先からのお土産という品々も混ざって、既に蓋の閉じられた満杯のダンボールがイルカの背後に堆く積み上げられていた。
もう差出人を一々確認して返事を出すなんて悠長な事を言っていられない量だ。それでも骨身を削って返事をきちんとするところが、イルカたる所以なのだが。終業ベルが鳴り響いたところで列は途絶えず、今日も定刻に帰れそうに無かった。

でも多忙な方がいい…余計な事を…カカシ先生の事を考えずに済む…

イルカがそんな事を考え、よしと気合を入れていると、
「取り合えず、残業するにしてもイルカは受付から下がれ、」
報告書の処理を横から手伝っていた同僚達が懇願するように囁いた。
「お前が受付に座ってると、人が退かねえんだよ、」
「……すまん、」
イルカは素直に頭を下げて、同僚の言葉通りに裏に引っ込んだ。

そうだよな…皆もとばっちりを喰らう形で残業続きで…

「この状況を何とかしないとな…」
給湯室でお茶を入れながらポツリと零すと、
「皆必死だからなあ…もう二度と鳶に油揚げを取られないように…形振り構っていられなくなったんだろう…」
同じようにお茶を飲みに来た隣の席の同僚が、うんうんと頷きながら入って来た。
同僚はよいしょと戸棚から自分専用の湯飲みを取り出し、
「イルカ、最中でもどうだ?」
ポケットから取り出した包みをイルカの前で広げた。少し潰れて端からあんこが出ている代物にイルカが躊躇していると、突然同僚はハッとしたような表情を浮かべ顔色を変えた。
「あ、いや…す、すまんイルカ…も、最中が菊の形をしているのに気付かなくて…決してお前をからかっているわけじゃないんだ…き、ききき、気を悪くしないでくれ…!」
何故かオロオロとする同僚に、話が見えないながらもイルカも慌ててしまって、
「え?なんだよ突然。い、いや俺は別に気にしてないって。それよりも最中貰うぞ、」
最中をひょいと摘んで一口で食べてしまった。
すると同僚があっと大袈裟に声を上げた。
「な、なんだよ?食べちゃいけなかったのか?」
「い、いや、そういうわけじゃなくて…イルカ、そんなに無理するなよ…」
真摯な眼差しで同僚に言われてイルカはドキリとした。そんなに消沈しているのが目に見えて分かるのだろうか。隠しているつもりなのに恥ずかしい。そう思っていると、
「世の中薔薇や菊だけが花じゃないって、」
よく分からない慰めの言葉を言って、同僚がポンポンとイルカの肩を叩いた。
同僚は人がいいのだが、今一つ言っている事が頓珍漢でよく分からない。それでも優しい気遣いが伝わってきて、イルカは作り笑顔を浮かべて、
「ああ、そうだな、」
適当に頷いた。
イルカが受付の裏の事務室から夕刻ながらもまだ明るい空を眺めていると、窓の外できゃあきゃあと嬌声が聞こえた。

あ、カカシ先生。

イルカが窓の外に目をやると、ハーメルンの笛吹きよろしくぞろぞろと女性の大群を引き連れながら、カカシがアカデミーの門を潜り抜けるところだった。プチハーレムの大移動にイルカはハアと嘆息した。見慣れた光景の筈なのに、それでも目にする度毎に胸が痛む。中庭でアカデミーの廊下で、果ては街中で。美女軍団を引き連れたカカシの姿をよく目にするようになっていた。

よかったですねカカシ先生…っていうか、今の状態は生簀と共に移動する釣り師みたいだ…
まさか釣っては食べ釣っては食べしてるんじゃないだろうな…

そう考えて激しく落ち込みながらも、特定の彼女を作っていない姿に何処か安堵する。
それは紅の姿を見かけた時もそうだった。紅の隣りに誰かカカシ以外の男性がいる事を確認しホッとする。
以前はあんなに理想の女性と焦がれていた紅だが、最近は紅を見てもまるでときめかなかった。
受付を出様、思わず紅の靴の爪先をほんの少し踏みつけてしまった同僚に、
「てめえ、下ろしたての新品に何て事しやがる!?舐めて汚れを拭き取りやがれ!!!!」
片方の足で頭をグリグリと踏みつけながら、踏まれた靴の汚れを舐め取らせた。
気温34度の真夏の室内が、一気に凍りついた瞬間だ。
その紅の勇姿を見詰めながら、

うわあ…紅先生…素面でもこのテンションなのか…すごいパッションだ…!
益々俺の直球ど真ん中の筈なのに…でもなんでだろう…全然胸がときめかない…

イルカはその場の空気よりも凍りついた自分の心を実感した。

カカシ先生なんて弱っちくて涙もろくて頼りなくて…全然俺のタイプじゃないのに…
どうしてなんだろう…どうしてこんなに…好きなんだろう…

残業の帰り道、イルカはコンビニが見えてくるとそっと歩く速度を緩めた。絶対にそんな事は無いと分かっているのに。

『イルカ先生、お仕事お疲れ様です、』

カカシが物陰から珍妙な格好で現れるような気がして。
だけどイルカにかけられる声も無く、駆け寄ってくる姿も無い。

馬鹿か俺は…。

イルカはズズッと鼻水を啜ると鼻の下を擦った。
夜道を照らすコンビニの温かな光が、今はとても悲しかった。

続く