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こうして見ると、意外に俺のアパートも広いもんだなあ…
いや、1LDK30u(ベランダ込み)の家を広いと言えるかどうかは微妙だけど…

イルカはがらんとした部屋の中をぼんやりと見渡した。
台所を占拠し、しばしばブレーカーを落とした2ドアの冷蔵庫は今はもう無い。
イルカは少し窪んでしまった台所の板張りを指でなぞって、あーあ、出て行く時に弁償だな、と一人言ちた。
カカシは一寸前にイルカの家を出て行った。
やって来た時と同じように、冷蔵庫一台を行商のおばさんのように背負って。
手筈は全てイルカが整えた。先にカカシの家に行って湿気た部屋の換気をし、積もった埃を箒で掃いて、水道・ガス・電気のチェックをした。そして一番の大仕事は不当な家賃請求の改善だった。イルカは法外な家賃を要求する悪徳管理人を火影直々に訴えた。
過剰に取り立てた分の払い戻しと、家賃の変更の証文を手に入れたイルカは、火影の威光をこれでもかと振り翳して、
「これを破ったら今度こそどうなるか分かりませんよ…?」
こう見えて俺は暗部ですから見張ってますからね、と不気味ににやりと笑った。勿論大嘘だったが、事情を知らぬ管理人はブルブル震えながら何度も頷いた。これから暫くは居もしない暗部の影に怯えた日々を過ごすのだろう。

丁度いいお灸になったな…

同情を感じなくもなかったが、身から出た錆だ。イルカは証文を手に晴れ晴れとした気持ちになった。
新たな家賃は月額九千八百円。幾らボロいとはいえ、共同じゃなくバストイレがついている上、商店街に程近い好立地なのに九千八百円。いきなりお得感満点掘り出し物好物件に大変身だ。

よかったですね、カカシ先生…!もう安心ですよ…!

きっとカカシはやらないだろうから、家賃の銀行口座からの引き落としの手続きもしておいた。
全て手抜かりなし完璧だ!そして餞別とばかりに、イルカは雀の涙ほどの自分の給料からお金を出して、カカシの部屋にカーテンをかけてやった。そこには黒いゴミ袋がガムテープで留められていているばかりで、かなり部屋として異様な雰囲気だったからだ。カカシ曰く「洗濯もしなくていいし、遮光性もばっちりでお勧め」という事だったが、勿論賛成できる筈も無い。生成りの優しい色合いのカーテンをかけてやるだけで、部屋の雰囲気はがらりと変わった。

もっと部屋の改造とかも手伝ってあげたかったけど…この続きは可愛い彼女がしてくれるだろう…

イルカは痛みを訴える胸に苦笑いを浮かべながら、最後にカカシの荷詰めの手伝いをした。カカシが愚図愚図と何時まで経っても作業が終らないのに業を煮やしたのだ。収納力を誇る2ドアの冷蔵庫は、買い足した服やら靴やらも全て見事に収納しきった。

ただ、重さが来た時より半端じゃなく増してると思うんだけど…だ、大丈夫かな…?

そんな事を心配しながらも、イルカは頑丈な鎖でカカシの体に冷蔵庫を巻きつけた。カカシは項垂れてされるがままだった。

帰るのが嫌なんだな…

分かっていたがイルカは気付かぬ振りをした。ずっと友達も出来ずひとりぼっちだったカカシは、この共同生活が、自分との友情ごっこが楽しくて仕方ないのだろう。それが終わる事に、一抹の淋しさを感じている。

だけど駄目だ…ここでカカシ先生に頷く事はできない。もう一緒にはいられないんだ…

きっとカカシはすぐに念願の彼女ができて、こんな男同士のむさくるしい生活は忘れてしまうだろう。
カカシはきっと大丈夫だ。しかし自分はどうだろう。そう考えてイルカはギュッと胸を鷲掴んだ。
耐えられないだろうなと思った。こんなに極自然に。二人でいる事に慣れてしまうと、一人でいる事に耐えられなくなってしまう。

俺も彼女でも作ろうかな…

すぐにはそんな事ができない性分なのに、強がりを言ちてみる。するとこんな状況でも少しだけ前向きな気持ちになれるのだ。
「短い間でしたが、カカシ先生の大変身のお手伝いができて、俺すごく楽しかったです。」
玄関口にカカシを送り出して、ニッコリとイルカが微笑むと、
「イ、イルカ先生…お、俺…」
カカシが何か言いたげに口を開いた。その目縁に透明の滴が盛り上がってくる。

カカシ先生が泣きそう。泣く絶対。

イルカは慌てて目を逸らした。カカシが涙を流すと自分はいつも流されてしまう。
「彼女ができたら、俺にも是非紹介してくださいよ。」
「イルカ先生、」
「身嗜みだけじゃなく、普段からの生活態度も大切ですから。気をつけてください。」
「イルカ先生…」
「そんな顔しないでください。受付ではまた会えるんですから。」
「あの、俺…本当は、」
「それじゃカカシ先生、」
イルカは背負われた冷蔵庫を手でグイと押し出すようにして言った。
「さようなら、カカシ先生。」
その言葉にビクリと体を震わせ、カカシは暫し立ち尽くしていた。背を向けている所為で…というか冷蔵庫が邪魔でよく見えないが、肩が小刻みに震えている…ようだ。

泣いてる…

イルカはポケットから咄嗟にティッシュを取り出しそうになって、ぐっと堪えた。
そしてカカシを促すようにもう一度言った。明るい声で。
「さようなら、」
カカシは無言のまま、のろのろと歩き出した。ふらつく足取りが重さの所為なのか泣いている所為なのか今一つわからなくて、イルカはハラハラした。転びはしないだろうかと心配したが、その辺は流石上忍、ふらふらしていてもちゃんと冷蔵庫を背負って歩いている。
カカシは何度か立ち止まってイルカの方を振り返った。イルカはその度毎に手を振って答えた。これでお別れだと知らしめるように。
「ちょっと可哀想だったけど…仕方が無いよなあ…」
イルカはその時のカカシの姿を思い浮かべながら、何とはなしに冷蔵庫の床の跡を撫でた。
瞬間ピリッと指先に痛みが走る。なんだろうと思ってよく見ると、窪んだ板の端がギザギザに少し捲れあがっていて、そこに指先を引っ掛けてしまったのだ。

あーあ、ついてない…

指先にぷくりと血の滴が浮く。痛いなと思った。すごく。指先が。痛い

そう、痛いのは指先だ…

指先から零れる赤い滴とは別に、透明な滴が床をポツポツと濡らしていた。

続く