(4)

昨日の晩の事は悪い夢だったのかな……

イルカは報告書を確認する合間にちらりと目の前のカカシの姿を盗み見て、ぼんやりと思った。
多少猫背で髪の毛が爆発しているものの、忍服に身を包んだカカシは至ってまともに見える。それどころか、どこかきりりと格好よくさえ見えるのだから不思議だ。
それがイルカだけの思い込みではない証拠に、受付所に居合わせたくのいち達が、頬を染めながら熱い視線でカカシを見つめている。

とても同一人物とは思えないよな……

イルカは昨夜のカカシのファッションや一連の行動を思い出して、突如として表情をどんよりと暗くした。夢だと思いたかった。里の誇るエリート忍者があんなに人並み以下の日常を送っているなんて、知りたくもなかった。忍術第一主義の忍社会の歪(ひずみ)を垣間見た思いだ。

教育者として……どうにかしてあげたかったけど……

イルカには自信がなかった。三重苦のヘレン・ケラーを救ったサリバン先生の事を思い、自分を奮い立たせてみたが、カカシは三重苦どころか四、五、六重苦すら越えていそうだった。途中で投げ出すくらいなら最初から関わらない方がましだ。一体どうしたものか。
しかしイルカはそんな内心の葛藤を億尾にも出さず、

「はい、結構です。」

カカシに向かってにっこりと笑って見せた。微塵の翳りもない会心の笑顔だ。
すると。

「あのー…今日もイルカ先生は残業、ですか?」

カカシが明後日の方向を見ながら、思い掛けない事を訊いて来た。そんな事を訊かれるのは初めてだった。

「はあ…?ええ、まあそうなるでしょうねえ…」

イルカは傍らにうず高く詰まれた書類を見つめて苦笑いを浮かべた。

「そうですか……!」

カカシは何故か表情を明るくして、「そうと決まれば急がなくちゃ、」と呟きながら、酷く慌てた様子で受付所を出て行った。
まるでイルカに残業がある事が嬉しいような感じだった。

何なんだ?一体……

イルカが訳がわからず、その後姿をぽかんと見詰めていた。

 

だが、その謎はすぐに解けた。
イルカがその晩遅く、疲れた体を引き摺る様にして家路を急いでいると、昨夜のコンビニの前にまた怪しい人影が立っているのが見えた。

ま、まさか……!?

イルカの予感は的中した。
そこに立っていたのはカカシだった。
今晩もカカシは上半身裸で首にはタオルを巻いていた。その辺はカカシの夏の基本らしかった。
しかしその他の部分は今日もイルカの心を激しく揺さぶった。ものすごい衝撃だった。
カカシは赤い短パンをはいていた。今日はゴムは強固なようだが、何とその短パンが裏返しのままだった。
サイズ表示の白いタグに「M」と印刷されているのがはっきりと目に見えた。
そして足元も昨日以上に酷かった。カカシは左右別の履物を履いていた。ビーチサンダルに革靴。その明らかに異質なもの同士が、お互いを主張しあっている。
昨日背負っていた傘は姿を消していたが、その代わり今度は犬のぬいぐるみ風のアニマルリュックを背負っていた。
その黒いつぶらな瞳であるボタンが一つ、糸が緩んでもげそうになっている。ちょっぴりオカルト風味だ。

な、ななな、なんじゃこりゃあ〜〜〜〜〜!?

イルカが内心大絶叫を上げながらふらりとよろめくと、

「イルカ先生、大丈夫ですか!?」

カカシが慌てたように駆け寄って、イルカの体を支えた。

「よっぽど仕事で疲労が溜まっているんですね…」

心配そうなカカシの言葉に、ちがうっつーの!とイルカは心の中で突っ込みながらも、

「ぐ、偶然ですねカカシ先生…今日もコンビニで買い物ですか…?」

にこやかに笑って見せた。何時でもどんな状況でも笑顔で応対、受付所魂炸裂だ。
カカシはイルカの言葉に、

「買い物っていうか…まあ確かに買い物はしたんですけど…」

どこか恥ずかしそうに体をもじもじとさせた。

またコンビニで買い物!?一体今日はどんなメニューなんだ…!?

イルカはカカシの献立が気になって仕方がなかった。放って置いたら、カカシはずっとポテトチップご飯みたいな世も末な料理を食べ続けるのだろうか。信じられない。やはりとても見過ごしてなどいられなかった。

今日も俺がご馳走してあげよう…!

「カカシ先生、今晩も俺んちに…」

イルカが言いかけた時、カカシが意を決したように大急ぎでまくし立てた。

「イ、イルカ先生、よかったら今晩は俺の家に飯を食いに来ませんか?昨日のお礼がしたいんです……。俺、腕によりをかけて作りますから!!」

「えぇっ!?」

カカシの突然の申し出に、イルカは驚愕のあまり悲鳴に似た声をあげてしまった。
カカシの腕によりをかけた料理とは一体如何なるものなのか。想像するに何処か空恐ろしい感じがする。

お、俺は頷くべきか否か……?

イルカは他人が自分の為に用意してくれた食事を、絶対に無碍に出来ない性分だった。それがどんなに不味くても、残さず食べる。食事ではなく、真心を頂いているのだと噛み締めながら。

でも俺はカカシ先生の料理を食べる事が出来るんだろうか……?

イルカは心の中で激しく葛藤しながら、目の前のカカシを見つめた。カカシは表情を硬くして、不安そうな瞳でイルカの返事をじっと待っていた。断りでもしたら、まるでこの世の終わりでも訪れてしまいそうな雰囲気だ。

そういえば、友達がいないって言っていたなあ……

イルカは何とはなしにカカシの言葉を思い出していた。こんな風に誰かを誘うことは、カカシにとって余程勇気のいる事なのかもしれない。
それに。

ずっとここで俺の帰りを待っていたんだろうか…?たったこれだけの為に……?

そう思うと何だかとてもいじましい気がした。何時の間にか迷いは霧消していた。

仕方ない……俺も腹を括ろうじゃないか!

固い決意のもと、イルカは会心の笑顔で大きく頷いてみせた。

「それじゃ、お言葉に甘えてご馳走になります。」

「えっ、ほ、本当ですか……?本当に……?よかった…!お、俺、嬉しいです……!!」

カカシもまたほっとしたように顔を綻ばせた。

「実はイルカ先生からOK貰う前に、部屋を掃除したり、買い物をしたりしちゃってたんです。」

無駄にならなくて良かった、と照れくさそうに笑うカカシの顔は、女でなくても見惚れるほど魅力的だった。

これが宝の持ち腐れって言うのかな……

イルカは今は沈痛さを増す材料でしかないカカシの美貌を見遣って、ハアと深い溜め息をついた。

この宝を何とか活かしてあげたいな……

そう思って、イルカはカカシの家へ向かう道すがら、またしてもカカシに今日の服装について説明を求めてしまっていた。
今度は好奇からではなく、カカシの趣向を理解して、これからの改善と向上に役立てようと思ったからだ。

「カカシ先生、短パンが裏返しですけど…」

「ああ、これは脱いだ時また表になるから大丈夫ですよ」

「……どうして犬のリュックを背負ってるんですか?」

「え?犬が好きだからです。それに今日は買い物して大荷物になると思ったし。忍びが買い物袋で両手が塞がってちゃまずいでしょ?」

イルカはそこまで訊いた時点で、とても履物について言及する気力が失せていた。理解云々の問題じゃなかった。何処も突っ込みどころが満載だが、果たして何処から突っ込んでいいのか。

やっぱり俺、はやまったんじゃないか……?

イルカはこれから自分を待ち受ける未知の領域を思って、思わず背筋を震わせていた。

5へ

戻る