(36)

今日は残業しなくて済みそうだな……

イルカは椅子の上で伸びをしながら受付所をぐるりと見回した。いつも終業時刻間近のこの時間は混雑しているのに、今日は人影がまばらだった。残業まで長引かなくても、イルカの机の前は任務報告を提出しようと滑り込みの忍で長蛇の列なのが常だ。
「こんなに人のいない日は珍しいよな…!」
イルカが屈託の無い笑顔で隣の同僚に同意を求めると、同僚は少し呆れた様に言った。
「あのなぁ…就業時間間近だと誘いやすいからじゃないか…まあ、皆同じ目論見で牽制しあって自滅してるけどな…でも、もうそんな努力も虚しくなったんだろうよ。あの人が相手じゃなあ…」
腕組をして一人分かったようにウンウンと頷く同僚に、イルカは首を傾げた。
「お前、さっきから何の話をしてるんだよ…?」
「どうして今日混雑していないかって話だ。」
「ふ、ふうん…?」
それ以上説明する様子もない同僚に、イルカは意味も分からないままに適当に相槌を打った。
しつこく問い質す話でもないと思ったからだ。同僚はちらとイルカを一瞥すると、突然ズズイと顔を近付けて来た。
「今日は全然溜息を吐かないんだな、イルカ?」
「えっ!?」
思ってもいない事を指摘されて、イルカは吃驚した声を上げてしまった。

お…俺、今日は溜息を吐いていなかった…?

気がつかなかった。そう言われてみればそうかもしれない。イルカは成程、とぽんと手を打った。
「そうか…!だから今日はメモやら手紙やら貢物がなかったって訳か…!」
貢物が多いと返事が面倒だと憂えるが、少ないのは喜ばしい事なので全く注意を払っていなかった。

そうか…溜息を吐かなかったから…付け入る隙がなかったんだな……

その事実に納得しながらも、一方でイルカは戦慄していた。
溜息を吐かなかった。それはつまり……

カ、カカシ先生の奇行に慣れてきたって事じゃないのか…?

そういえば、今日は仕事中カカシの奇行を思い出して、溜息をつくどころか、思わずクスリと笑ってしまったりしていた。何処となく和やかな気持ちにさえなっていたような気がする。

そ、それは俺にとって果たしていい事なのか悪い事なのか…大丈夫なのか、俺?

イルカは自分も知らず変人に染まってしまったのではと焦りを感じて、深刻な表情で同僚に詰め寄った。
「お、俺、最近感じが変わってないか…?そ、そのう…キてるよ、こいつ!みたいな…引くようなところは…?」
おろおろと尋ねると、
「いや、お前が変だから人が来なくなった訳じゃなくてさ…ほら、例のはたけ上忍…あの人が原因な訳よ。だってあの人…」
意味ありげにニヤニヤと笑いながら、同僚が肘でイルカを小突く。イルカは同僚の発言に目を白黒させた。

ええっ!?な、なんで突然カカシ先生の名前が…!?
俺、カカシ先生の変人振りが伝染ったかもなんて口にしたか?い、いやしていない…筈だ!うん!
そそ、そ、それともこいつ…カカシ先生が変人だって知ってるのか…!?

どう答えてよいか分からずイルカが返事を躊躇していると、がらりと受付所の扉が開いた。
その瞬間開いた扉から、ピカーッと有り難くも尊い後光を放ちながら、清らかな人影がイルカ達の前に現れた。同僚はあまりの驚きにだらしなく口を開けたまま固まっている。その場に居合わせた数人の人々も、手からばさりと書類を落とすと、へなへなとその場に腰を落とした。誰もがその顔に恍惚とした表情を浮かべている。その中でイルカだけが鼻先を掻きながら困ったような笑顔を浮べていた。
清らかな光を放って現れた人物はカカシだった。
昨日カットした白虎の如き美しき毛並みに、額当ても口布もなく全てを晒した容貌は神々しいばかりだった。恍惚とした人々が、ポケットから取り出した小銭をカカシに向かって投げては、手をすり合わせているのも無理はない。
しかし。

うーん…時としてずば抜けた美貌はその他の難点を凌駕するものなんだな……

カカシマジックに平伏す人々の中で、イルカだけが素のままだった。

「あのー…カカシ先生…迎えに来てもらって文句は言いたくないですけど……うーん、確かに買ったものをすぐ着たいという気持ちは分かりますよ…勤務時間以外は私服もOKですから、何着ようと自由ですけど。でも、それは今晩まで待ちましょうね、って言った筈ですよ。それに…TPOってものがあるでしょう?」
苦笑しながらやんわりと諭すと、
「え、だって…これって浴衣か何かの一種じゃないんですか…?」
お風呂上りに着るって、イルカ先生言ったでしょう、とカカシはきょとんとした顔で手を広げた。

いや、全然違うし。

いつもだったら吐く筈の溜息の代わりに、くすっとイルカは笑い声を立てた。
「それはバスローブといって、どちらかというとパジャマに近いものですかねえ…いや、それよりも下着に近い…かな?」
イルカの言葉に「ええっ!?し、下着…!?」とカカシが素っ頓狂な声を上げて忽ち顔を赤くした。
「は、恥ずかしいです、お、俺…すぐに着替えてきます…っ!ま、待っててくださいね!先に帰らないでイルカ先生…!」
カッカと赤い顔を両手で隠しながら、カカシが大急ぎで受付所を出て行く。その時何かをバサッと落としたが気がついていないようだった。イルカはそれを拾いながら、柔かい笑顔を浮べた。

よっぽど恥ずかしかったんだなあ…あんなに顔を赤くして…

くすくすと笑いながら拾ったものに目を遣ると、それはバラの表紙の本だった。

カカシ先生、園芸好きなのかな…?

可愛らしいカカシ先生にぴったりな趣味だな、とイルカは益々顔をほころばせた。


続く

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