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俺の人生はもうお終いだ・・・野郎と擦りっこして出してしまうなんて・・・

イルカは今日もまた受付所に座って苦悩の溜息を吐き捲くっていた。しかし不思議な事に、誘惑のメモを挟まれたり栄養ドリンクを貢がれたりという事が昨日よりも少ない。しかも格段に。その急激な変化をイルカの同僚は訝しんだが、当のイルカ本人はそんな事に注力するような余裕がなかった。昨晩の事を考えまいとしても、どうしても考えずにはいられない。イルカの憂いは擦りっこどころの話じゃなくなっていた。何故ならカカシがハアハアと熱い息を吐きながら言ったからだ。

「俺、正しいセックスというものが分かっていなかったみたいです・・・!暗部上がりだからかな?常識に疎くて・・・恥ずかしいです・・・キスがこんなに好いモノだって知りませんでした・・・女性に振られるのは俺のアレの所為じゃなかったんですね・・・!」

長い夢から覚めたように目をキラキラとさせるカカシに、

「はあ・・・まあ、そうですかね・・・」

他にも色々問題あるんだから、そんな事くらいで安心されても、と内心呟きながらもイルカは曖昧に相槌を打った。それよりも何よりも、男同士で擦りあって出してしまった事に微塵の疑いや憂いを感じていないのだろうか。イルカは目の奥が熱くて仕方がないというのに、目の前のカカシは下半身や腹を白濁したもので汚したまま、ニコニコと邪気のない笑顔を浮べている。そんなカカシを何処か空恐ろしく感じつつも、イルカはその事について言及できなかった。薮蛇になったら困るからだ。

や、ややや、やっぱり、閨のレッスンは危険過ぎる・・・
いい解決策が見つかるまで、何とかカカシ先生の注意を他に向けねば・・・!

「あのですね、カカシ先生・・・」

「明日もよろしくお願いします・・・!」

ガバリとまた平気で額を畳に擦りつけるカカシにイルカは狼狽した。

「な、なんで土下座してるんですか、カカシ先生・・・!?」

焦るイルカにカカシは額をグリグリと大袈裟に畳に擦りつけながら言った。

「明日もこの続きを教えてください・・・!あの・・・あ、愛撫、でしたっけ・・・?お願いします!!お、俺、イルカ先生が頷いてくれるまで土下座を止めません・・・!」

どうしてそこまでそこにこだわる?

イルカは心の中で血の涙を流しながら、体をフルフルと震わせた。この続きなんて絶対に嫌だった。イルカは決してホモではない健全な嗜好の成年男子だ。最終的には愛撫とは如何なるものか教える事になるのかもしれないと漠然と思ってはいるが、まだ心の準備というか、その覚悟ができていなかった。それに自分の天上級の愛撫を、カカシがオリジナルのアレンジを加えて自分に反復するのかと思うと、一体何が起こるのかわからなくて恐ろし過ぎる。

だってそうだろ・・・?普通、ここまでするなんて思わないじゃないか・・・!お、俺が不甲斐ないわけじゃないよな・・・!

「い、いや、カカシ先生、取り合えずカカシ先生のソレが悪いわけじゃないと分かったんですし・・・そんな目に見えない事よりもまずは外見とかから変えて行きませんか・・・?そ、そうだ、その髪型とか・・・!ね、そうしましょう・・・!」

イルカはカカシの背中をバンバンと豪快に叩きながら、できるだけ快活な声で言った。ややもすれば、嫌悪感丸出しのどんよりと暗い声になってしまいそうだったからだ。それではいけない。あくまでも己の心の内は見せぬまま、大切な事は他にもあるのだと教師らしく諭さねばいけないのだ。
だがカカシも必死だった。額を擦りつけた畳に見る見るうちに濡れたような染みが広がっていく。なんと、それはカカシの零した涙と鼻水のようだった。うぐうぐとくぐもった声を上げながら、カカシの肩が震えていた。

「お願いします・・・お願いしますっ・・・・も、もう俺、イルカ先生しか頼る人いなくて・・・っく、お、俺、腐れチ○ポ野郎という称号から早く解放されたいんです・・・おね、お願いします・・・っ!」

ううっ、と今度はイルカが呻く番だった。「腐れチ○ポ野郎」と女性に罵られてきたカカシの悲惨なヒストリーは、何度聞いても同じ男として、大いに憐憫を感じずにはいられない。そのヒストリーにイルカは弱かった。

そ、そうだよな・・・カカシ先生がその事ばかりにこだわるのも仕方ない・・・
大体女って奴はデリカシーに欠けるよな・・・下手だの早いだの小さいだの、パルキーに似てるだの、男の面子に関わる事を平気で言うからなあ・・・・

イルカもまだ物慣れなかった頃は、そんな些細な言葉を言われて傷ついたものだ。そんな事を考えているうちに、また段々とイルカはカカシに協力したいような気持ちになってしまっていた。後悔する事は分かっている筈なのに、不味い位にお人よしだ。

「カカシ先生・・・わ、分かりました・・・この続きはまた明日にでも・・・」

「ほ、本当ですか・・・!?本当に?イルカ先生、嘘じゃないですよね・・・!?」

がばっと勢いよくあげられたカカシの顔は、想像どおり涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。大人の男にありえないほどの泣きっぷりだ。指きりげんまんと物凄く真剣な顔で小指を絡められて、イルカは思わず笑ってしまった。やっぱり子供に見えるなあ、などとほのぼのとしながら。

そんな昨晩の自分をイルカは今猛烈に呪っていた。ほのぼのしているような場合ではなかったし、相手は子供でもない。第一子供はあんな事をしないという大前提をうっかり忘れていた。

・・・カカシ先生を前にすると、いつも冷静な判断力を失うんだよな・・・

いつもその凄まじき非日常性に呑み込まれて、何が正しいのか分からなくなってしまうのだ。

ああ〜・・・まずい・・・まずいよ・・・今晩どうするんだよ俺・・・?
今となっては無駄にテクニックのある自分が憎い・・・ああ〜・・・!このまま何処かに逃げてえ・・・!!!!

イルカはそこまで考えてハッとした。

そ、そうだ、今日は残業で遅くなるってのはどうかな・・・?何時になるか分からないから先に帰って貰って・・・

それはとてもいい考えの様に思えた。ピークを越えたとはいえ、まだ確かに仕事の方は忙しく、何処も不自然じゃなかった。初めて忙しい仕事場に感謝を覚えたイルカだ。だからイルカは終業ベルと共に嬉々として現れたカカシに言った。

「今日は残業で何時帰れるかわからないんで・・・先に帰って休んでいてくれませんか?」

何気なくカカシに鍵を渡すイルカに、周囲の人影が「そ、そんな・・・」と悲痛な叫びを上げて、ふう〜と意識を失って倒れていく。しかし、イルカにはそんな周囲の様子も目に入っていなかった。

ど、どうかな・・・?

イルカが冷や汗混じりにカカシの反応を待っていると、暫しの沈黙の後、

「そうですか・・・それじゃ仕方ないですね・・・!」

カカシはにっこりと笑顔を浮べながら鍵を受け取って帰って行った。その後姿にイルカは心底ほっとした。

よ〜し、今日はバリバリ残業するぞ・・・!

その内心の言葉通りにイルカは残業に精を出した。他人の分まで仕事を引き受けてしまう有様だ。とにかく少しでも帰宅を引き伸ばしたい一心だった。まるで恐妻が家で待つ中年親父のような悲哀を感じないでもなかったが、イルカは頑張った。そんなわけで帰宅はかなり遅い時間になってしまった。夜半をはるかに回り、もう夜明けの方が近い。

幾らなんでも遅すぎたかな・・・

イルカが眠い目を擦りながら、ふらふらと覚束無い足取りでコンビニの前を通りかかった時。イルカは寝惚けた頭が急速に覚醒するのを感じた。コンビニの前に銀の髪をした、上半身裸の男がいつもの様に強烈な格好をして蹲っていた。その男は首タオルで零れ落ちる汗を拭きながら、嬉しそうな顔をして駆け寄ってきた。

「イルカ先生、お帰りなさい・・・!随分と遅かったんですね・・・本当にお疲れ様です・・・!お、俺、何だか心配で家で待ってられなくて・・・でも仕事先まで行って邪魔しちゃいけないと思って・・・」

これ、コンビニで買ったんです、とカカシはイルカに栄養ドリンクを手渡した。

「カカシ先生・・・」

ずっとここで待っていたんですか。

続くその言葉をイルカは口にすることが出来なかった。そんな事は訊かなくても分かっていた。冷えている筈の栄養ドリンクの瓶が既にぬるかったからだ。

「遅くなって、すみません・・・」

イルカはそう言うだけで精一杯だった。

続く

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