(7)


俺のことを、憎んでいるのに。

イルカの言葉にカカシは眠たげな目を一瞬見開いた。鈍いと思っていた人物が意外に鋭敏な感覚を持ち合わせていることに、カカシは内心感嘆の声を上げた。

やるねぇ。

カカシは口の端を吊り上げて酷薄な笑みを浮かべた。
カカシはイルカを見縊っていた。愚鈍で無防備なこの男を手玉に取るのは易いことだと侮っていた。

道理で堕ちないはずだ。

カカシは今までのイルカの不可解な態度に納得した。

カカシが声をかけると、イルカは心からの笑顔で応えた。
カカシの誘いにイルカは首を横に振ったことは無かった。

イルカがカカシを見つめる瞳が。
カカシを呼ぶ声が。
綻ぶその顔が。

イルカの全てがカカシを好きだと伝えていた。

それなのに、いつまでたってもイルカはカカシの手に堕ちてこなかった。カカシが一歩踏みこむと、それと気付かれない様にイルカはそうっと一歩退いた。カカシは始めのうちはそれに気付かなかった。柔らかな微笑みの下に遥かな境界が引かれていることに気付いたのは、ごく最近のことだった。どうしてなのか、カカシには全く分からなかった。イルカが自分を好きなことは確かなのに、イルカがカカシの甘言に釣られることはなかった。いつまでたっても縮まらない距離にカカシは焦れて苛立っていた。はやく。嬲って。泣かせて。踏み躙ってやりたいのに。

カカシが苛立つ原因は他にもあった。そんなことは今まで無かったのだが、完治したはずの右足が痛むのだ。始めてツキンとした痛みを右足に感じた時には、カカシは然程気にしていなかった。古傷が痛むこともあるだろう程度に思っていた。ところが痛みがその後も思い出したかのようにカカシを襲うようになると、カカシは聊か不安を覚えた。念の為に病院で右足の再検査を受けてみたが、そこに何の異常も認められなかった。しかし痛みは断続的に訪れ、次第にその強さを増した。今はまだ我慢できる範囲だが、この先一体どうなるのかと思うとカカシの心は恐慌を来した。ポンコツの右足。そんなものを抱えて務まるほど忍は甘くなかった。暗部を退く原因となったこの足が、今度は忍として生きることすらカカシから奪おうとする。耐えられなかった。このことを知られてはいけないとカカシは思った。隠し通さねば。思うと同時にイルカへの憎悪が増した。

今日もカカシは上忍として振り分けられた任務に就いていた。Bランクの簡単な任務だった。
簡単に済むはずの任務でカカシは負傷した。恐れていたことが起きたのだ。敵と応戦中、カカシの右足が突然ズキリと痛んだ。そのため反応が僅かに遅れた。その隙を突かれた。それでも寸でのところで急所を避けたカカシだったが、切り裂かれた左肩は真紅の血を飛び散らせた。カカシは怒りと恥辱で眩暈がした。格下に切り裂かれた恥辱は、敵を残忍なまでに切り刻むことで昇華した。
そして、この怒りは。カカシを脅かすポンコツな右足に対する、この激しい怒りは。

イルカを滅茶苦茶にすることでしか治まりそうに無かった。

カカシは任務から戻ったその足で、イルカのアパートを訪れた。イルカは今日は遅いのか、まだ帰っていなかった。
じわじわとイルカを堕とす愉悦よりも暴力的な衝動の方が勝っていた。

そこにイルカが帰って来た。
凶悪な気持ちを押さえつけて、カカシはイルカを呼んだ。イルカ先生。油断させて距離を詰める。肉食獣が獲物に近付く時のように、慎重に。
すると、その時。思い掛けないことが起こった。
イルカが、泣いたのだ。
それも我慢を知らない泣き方だった。込み上げる嗚咽も涙もそのままに、イルカは肩を震わせ泣きじゃくっていた。
カカシは予想していなかった出来事に毒気を抜かれて呆然とした。と同時に怒りに沸き立っていた頭が途端に冷静になる。
チャンスだ、とカカシはほくそえんだ。今イルカは弱っているのだ。今が付け入るチャンスだ。

そう。身体だけじゃ駄目だ。そんなの手緩い。
心も身体も。イルカの全てを踏み躙ってやるのだ。

カカシは気を良くして言った。

「どうしたんですか、イルカ先生。泣いてるの?」

猫撫で声で囁く。偽善の笑顔を惜しみなく振り撒いた。
ゆっくりと上げられたイルカの瞳が、涙で濡れて黒曜石のように輝いていた。
綺麗だな、とカカシは思った。美しいものを踏み躙る快楽を想像してカカシはうっとりとした。


だが、イルカは気がついていたのだ。
カカシの憎悪に。
イルカを踏み躙ろうとする、暗い情熱に。

気がついていたのに。

カカシはそのことに思い至って、至福の笑みを浮かべた。策を弄さずとも。

「イルカ先生こそ、どうして?」

カカシの問い掛けにイルカの瞳が揺れた。その先にある真実に触れられるのを厭うように、イルカはギュッと目を閉じた。


「俺に憎まれてると思うのに、どうして俺の傍にいるの?」


そうだったのだ。
カカシの憎悪をも関係無いほどに、イルカは。


しばしの沈黙の後に、イルカが重い口を開いた。その唇は小刻みに震えていた。

「....俺が、居たいから...です。」

小さく紡がれる言葉にイルカ自身が慄いているようだった。

「俺が、カカシ先生を....好きだから、です。」


カカシは満足そうに歪んだ笑みを浮かべると、震えるイルカの背中にその腕を回した。



続く