(6)

「どうしたんですか、イルカ先生。泣いてるの?」

近寄ったカカシが優しく言いながら、顔を上げるのを促すかのように震えるイルカの肩に手を置いた。イルカは溢れる涙もそのままに、ゆっくりと顔を上げた。間近にカカシの顔があった。眠たげな瞳がイルカを映していた。だが、その瞳には決定的なものが欠けていた。

イルカの痛みの元凶。
こんなに脆くなっている時に、思い知らされたくなかった。

6年前、イルカが戦地の療養所から木の葉に戻った時には既に、カカシの傍に自分の居場所はなくなっていた。イルカと知り合う以前にそうだったように、カカシは任務と女と酒との間を渡り歩く享楽的な生活に戻っていた。だが、頭では理解しているつもりでも、何処か期待していたのかもしれない。イルカは戻るとすぐに、カカシの家の近くまで足を運んだ。カカシの家の前を手持ち無沙汰にウロウロしていると、カカシが道の向こうから帰って来るのが見えた。久し振りに目にする最愛の人の姿にイルカは胸を詰めた。暗部を退かねばならないほどの大怪我と聞いていたが、カカシは元気そうだった。イルカは安堵に体の緊張が緩々と解けていくのを感じた。カカシに駆寄りたかった。声を、聞きたかった。その唇で「イルカ」と呼んで欲しかった。色々な気持ちが高波のように押し寄せてきてイルカを飲み込んだ。その波に翻弄されて、イルカはただ呆然と立ち尽くすだけだった。

と、その時。カカシ、と鈴を転がすような声がした。
見知らぬ女がカカシに駆寄って、そのしなやかな腕を当然のようにカカシの腕に絡めた。
カカシはそれを振り解くこともなく、二人は身を寄せてイルカの方までやってきた。

ぼんやりと。
イルカはその光景をぼんやりと見つめた。
それは現実のことなのに、まるでブラウン管を通して見ているかのような錯覚を覚えた。

すぐ目の前にカカシの姿があった。
カカシにも自分の姿が見えているはずだ。見えているはずなのに。

カカシはイルカの傍らを通りすぎた。
イルカに一瞥もくれることなく。

イルカはその時になって初めて、自分は失ってしまったのだと分かった。
自分の居場所を。
以前カカシの心にあった、確かな場所を。

上忍になったカカシとはその後も何度も顔を合わせる機会があった。受付所で。アカデミーで。木の葉の其処彼処で。事務的なものだったが、受付所では言葉を交わしたこともあった。だが、カカシの瞳がイルカを映すことはなかった。

それでもやってこれたのは、カカシとの約束があったからだ。

ずっと俺を好きでいて。

カカシは事ある毎にイルカに強請った。

ずっと俺を好きでいて。
遠く離れていても。
ずっと会えなくても。
いつか俺が俺でなくなってしまっても。
俺が先に逝ってしまっても。
ずっとずっと、好きでいて。

あんたの心は俺だけのものだと誓って。
未来永劫、あんたは俺だけのものだと。

それを聞くとイルカはいつも苦笑して、貪欲ですね、と呟いた。
貪欲です、とカカシは答えた。真剣な瞳をして、ずっとあんたのここに居たい、とイルカの胸を指でトンと突いた。

ずっと、ここに居させて。

ふたりの約束。

だからカカシがイルカをすっかり忘れてしまっても構わなかった。
だって約束したから。カカシと、約束したから。

ずっとカカシだけを想い続けると。

約束を守っているのだと思うと幸福だった。
アスマは忘れちまえと嫌な顔をするが、忘れられる筈なかった。
イルカが忘れたら。忘れてしまったら。あの優しい日々は本当になかったことになってしまうのだ。
だってそれは、今はイルカの心の中にしかないのだから。
カカシは、全て忘れてしまったのだから。


カカシがナルトの担当教官になったと知った時、素直に嬉しかった。
今はもう遠くなってしまったカカシと、接点を持てることが嬉しかった。
何かを期待するような気持ちは長い歳月の中で失われてしまっていた。
ただ、顔を合わせれば挨拶をしたり、社交辞令的な言葉を交わしたり、そうした少しばかりの関係が築ければいいと思った。
慣れてしまった事とはいえ、カカシが自分に何の注意も払わないことが辛かったから。

それなのに現実はもっと残酷だった。
そんなちょっとした関係もイルカに許してくれなかったのだから。
再会したカカシは優しかった。ナルトの事に熱心で、よく飲みに誘ってくれた。
でもイルカには分かっていた。分かってしまった。
それを認めるのはとても辛いことだった。

「カカシ先生、どうして...」イルカは流れ落ちる涙をごしごしと擦りながら呟いた。

それを口にしてしまったら、もうお終いだと知っていた。でも我慢できなかった。

「どうして、俺に構うんです...?」

イルカが痛みを感じる理由。

「あんたは、俺のことを...憎んでいるのに。」


続く