(19)

「イルカの目は、まだ覚めねえのか。」

沈んだ顔をしているカカシに、アスマはなるべく明るい口調で言った。

「それより、お前の方が重傷だってのに、ふらふら出歩きやがって...!」ちったぁ、休んだらどうだ。

カカシは子供のように、ぶんぶんと首を横に振った。そんなカカシの様子に、アスマはどうも調子が狂う。実際どう扱って良いか分からず、アスマは溜息をついた。

『黒の猟団』がナルトを攫った事件は、ナルトの奪還と敵の殲滅により、短時間のうちに終結を迎えた。相手が厄介な敵だっただけに、里長の迅速な判断が功を奏したといえた。それでも、派遣された多くの仲間が殉職し、慰霊碑に名前を連ねた。だからカカシとイルカが木の葉病院に運び込まれた時の様子を見て、アスマは柄にも無く動揺した。特にカカシの怪我はひどかった。もともと重傷の体を引き摺っていったせいもあるが、それにしてもひどかった。だが、生来生き汚いカカシは、驚異的な回復力を見せ、ふらふらとではあるが、すぐに歩いたり出来るようになったのである。それに比べ、イルカはずっと眠ったままだった。時々目を瞬かせることはあったが、すぐにまた眠りに落ち、カカシを一喜一憂させた。カカシはイルカの傍らに、はりついたままだった。

「ところで、お前ぇ。俺がこのまま黙ってると思ってんのか。折角入院してるんだから、右足の持病を看てもらえ。」命取りになるぜ。

これもまた明るい口調で言ってみたが、アスマはどうにも気が滅入った。自分の見た様子では、カカシの足はもう使い物にならないかも知れないことが分かっていたからだ。
だが、それに対するカカシの答えは存外明るいものだった。

「ああ、あれねえ。なんだか知らないけど、治っちゃった。今回の打ち所が良かったのかな。」

「......。」

「治ったのは、本当。多分、精神的なものだったんだ。」

カカシがアスマに言っていることは本当のことだった。カカシがイルカを庇って以来、右足の痛みは嘘のように消えていた。発作的な痛みも襲ってこなかった。その時初めてカカシは気付いたのである。この6年間全く痛まなかった右足が痛みを訴え出したのは、イルカと出会ったあの日からだという事に。カカシがイルカに非道くすればするほど、小さな痛みだったそれは、耐えがたいほどの痛みへと悪化していった。多分それはイルカを傷つける自分への、警告だったのだ。本当はイルカを愛していたのだから。

「へっ、精神的、なんてタマか、お前が。図太い神経しているくせに。」アスマが毒づくと、カカシが肩を竦めた。

「意外にナイーブなんだ〜よ。」

やってられねえとばかりに、アスマは煙草を取り出した。
その途端、ここ禁煙だから、とカカシにイルカの病室を追い出される。

背中を押されながらアスマはニヤニヤと笑った。

「しかしよ、俺はこうなると思ってたぜ?」

何が、とカカシは訝しげな顔をした。

「記憶が無くても、お前はまたイルカに惚れるだろうってよ。」してやったりという顔をして、アスマは高らかに言い放った。

その言葉にカカシの顔が曇った。

「なんだよ?」予想外の反応に、アスマは自分が悪いことを言ったような気持ちになって、内心焦った。

「イルカ先生は、どうかな?」カカシがポツリと零した。

「記憶の無い俺を、好きになってくれるかな。」肩を落として弱音を吐くカカシに、アスマは持っていた煙草を取り落としそうになった。

アスマは心の中で叫んだ。

イルカよ、早く目を覚ましてくれ!じゃねえと、カカシが何処までもおかしくなっていっちまう!面倒臭ぇだろうが!!

そしてアスマは至極当然の返事をした。
甘やかさないのが俺の主義だとばかりに。

「そんなの、イルカに訊け。」




イルカが目覚めた時、そこは病院のベッドの上だった。
最初にイルカの目に映ったのは、病院の白い天井と古びた蛍光灯だった。ぼんやりした意識を手繰り寄せながら、イルカは視線をウロウロと彷徨わせた。その視線がある場所まで来ると、そこに釘付けになった。豊かな銀髪に、三日月の形に目を眇めて笑う人。
自分の傍に、カカシがいた。

イルカは一瞬呼吸を止めて、大きく目を見開いた。

「カカシ先生....」

その姿に急速にイルカの記憶が甦った。

「け、怪我...っ!!カカシ先生、怪我はしませんでしたか!?」

興奮気味に叫びながら、イルカが体を起こそうとするのを、カカシは優しく押し戻した。

「俺なら、ホラ、大丈夫ですよ。あんたの方が重傷なんだから、まだ大人しくしていてください。」

イルカは訝しげにカカシを見遣った。この前の爆発で、カカシがまた自分を庇ったことを覚えていた。爆発を受けて、カカシが無傷のはずはなかった。何の気まぐれかは知らないが、どうしてそんなことをしたのか。憎んでいる俺のことなぞ、放っておいていいのに。イルカはちっとも嬉しくなかった。カカシを犠牲にしてまで、助かりたいとは思っていなかった。

あんたはまたその服の下に大怪我を隠しているんだ。そして平気な顔をしている。

非道い人だ、とイルカは思った。ちっとも自分を大切にしてくれない。

イルカは込み上げる苛立ちを我慢できなくなった。

「大丈夫のわけ、ないでしょう!?あんた、どうして俺を庇ったんです...!?」

イルカは激情のままに、カカシに向かって叫んでいた。

「どうして追ってきたんです?あんたは、大怪我してたのに。どうして、庇ったんです?....俺のことなんか...憎い奴の事なんか、放っておけばいいんだ!どうして、あんたはっ!...あんたは、自分のことを...大切にしてくれないんだ....!!」

すると意外にも、カカシも質問で返してきた。

「どうしてどうしてって、さっきからそればっかりですけど、それじゃあ俺も訊いていいですか?どうしてイルカ先生は俺のことが好きなんです?死んでもいいって思うほど。あんたを憎んでしかいない男を、どうして?」

カカシは真剣な目をしていた。虚をつかれた質問に、イルカは先ほどまでの怒りが吹っ飛んでしまった。

どうして?好きなのに理由が要るのか?カカシは何を訊きたいのか?

質問の意図がわからず、イルカがきょとんとしていると、カカシはもう一度言い直した。

「あんたが好きなのは、今目の前にいる俺ですか?それとも6年前の俺ですか?」

イルカは息を詰めた。カカシは、知っていたのか...でも何故今更そんなことにこだわるのか、イルカには分からなかった。それにイルカにとって6年前も今も関係ないのだ。どちらも同じ、自分の愛したカカシなのだから。

どう答えていいのか分からず黙っているイルカに、無理に答えを強請るでもなく、カカシは言葉を続けた。

「あんたの鼓動を確かめたんです。」

カカシの言葉は益々分かりづらいものになった。
俺の鼓動って...。
思わず眉を寄せるイルカにカカシは柔らかく笑った。イルカはドキリとした。長い間見たことがなかった、懐かしい笑顔だった。まるで昔に戻ったような。自分のそんな考えにイルカは首をブンブンと振った。

何を考えているんだ俺は。

「爆発で気を失ってるあんたの胸に、頬を寄せて。あんたの鼓動を聴いて。生きていることを確かめたんです。あんたが生きていると分かって、俺はひどく安心した。嬉しかった...泣きたいくらい心が震えた。その時、不思議な話ですけど、そうしてあんたの鼓動を確かめたのは、初めてじゃないって気付いたんです。他のことは何も覚えていないのに....記憶は全くないのに...あんたの鼓動を聴いて...あんたが生きていると確かめて、泣きたいくらい幸せに感じたことを、俺の体が教えてくれたんです....。あの時も今も....同じだったんです。ようやく分かった。俺はあんたのことを、」

イルカの体が震えていた。その先の言葉を予想して。

「一番大切に思っているから。自分よりも、ずっと。」

愛してます。

イルカは言葉にならなかった。

「愛してます。あんたを。昔の俺も、あんたを愛していた...ねえ、でも俺はもうその記憶は取り戻せないんです。」

そう言ってカカシは突然泣きそうな顔をした。

「あんたが宝物だと言った、6年前の俺はいないんです....俺の中には何もない。昔の俺はあんたに優しかった?俺は...俺はあんたに非道いことしかしていない。それでも、あんたは俺を愛してくれる?こんな俺でも愛してくれる?少しでいいから。少しだけでいいから、ここに、俺の居場所をちょうだい....」

カカシは自信無げに呟いて、イルカの胸を指先でトン、と突いた。

ここにずっと、居させて。

6年前のカカシの姿と今のカカシの姿がだぶる。

同じカカシだ。同じだ。俺はこの人を愛しているんだ、とイルカは思った。
大切なのは優しい想い出ではなくて、今目の前にいるカカシなのだ。


「記憶なんて....関係ありません....」熱いものが込み上げてくるのを何とか押さえつけながら、やっとの思いでイルカは口にした。ちゃんと答えなければと思った。カカシに届くようにちゃんと。

「俺は、あんたを、愛してるんです。....あんたがどんな風になっても、」

遠く離れていても。ずっと会えなくても。
いつかまたあんたが俺を忘れてしまっても。あんたが先に逝ってしまっても。

「ずっとあんたを愛しています....。」

カカシが強請った言葉を、今度はイルカから与えた。

「約束します...。」


カカシの腕がイルカを掻き抱いて、痛いほど締めつける。
我慢する必要の無くなった涙が、イルカの瞳から止めど無く零れては落ちた。

これからも傍にいていいのだ。
これからも想い続けていいのだ。

これからもずっとずっと。

お互いに離れないことを誓い合う。

ふたりの、約束。



終り