(18)


翌日カカシは激しく扉を叩く音で目覚めた。

あれ、ここ何処...

ドンドンドンと尚も激しさを増す音を聞きながら、カカシは寝惚け眼を擦った。

そうか、ここはイルカの家か。俺はあのまま寝てしまったのか。

イルカの気配はなかった。もう出勤してしまったのであろう。

それにも気がつかないほど、熟睡していたのか、俺は。

疲れていたとはいえ、カカシは自分に呆れた。熟睡したせいか、体の調子は大分良くなっていた。カカシがぐるりと辺りを見回すと、卓袱台の上に白い布巾が掛かっているのが目に入った。引き攣れる背中の痛みに顔を顰めながら、カカシは布団から起きあがると、卓袱台の上の布巾をめくった。そこにはお握りと卵焼きといった、簡単な朝食が用意してあった。その横に「病院に行ってください」と短く書かれた紙切れが置かれていた。

イルカらしいな。

カカシがそう思った時、玄関の扉がバーンと壊れそうな勢いで開けられた。

「てめえ、聞こえてるんならさっさと開けやがれ!」怒号と共にアスマが入って来た。

「え〜、だってイルカ先生ならいないよ?」俺に用なの?と、カカシはのんびりと答えた。

「お前に用だ。ここにいると思ったぜ。」アスマは俄かに緊張した面持ちで言った。

「ナルトが『黒い猟団』に攫われた。今東の国境沿いを逃走中だ。奴らは大人数の部隊で動いている。主だった暗部と上忍に緊急召集がかかって皆後を追っているが、召集がかかる前に、それを知ったイルカが飛び出して行っちまってよ。」

黒い猟団と聞いてカカシは眉を顰めた。悪名高い国際テロ組織だ。忍の理想国家をつくることを目標に掲げたその組織は、手足れの抜け忍によって構成されていた。厄介な相手だった。ナルトを攫ったのは九尾の妖狐の力を狙ってのことだと言わずと知れた。暗部や上忍に召集がかかるのも無理はない。そんな連中を追って、イルカが飛び出して行ったなんて、無謀過ぎる。一体何を考えているのか。

「昨日重傷を負ったお前には召集が出ていねえが、伝えておこうと思ってよ。俺も、もう行かなくちゃならねえ。後はお前の好きにしろ。」

アスマは言うだけ言うと、サッと姿を消した。

カカシは傍にあったベストを乱暴に掴むと、駆け出していた。


カカシは全速力で走っていた。
痛むはずの背中も足も、今は何も感じなかった。
東の国境沿いまで来ると、カカシは口寄せをして忍犬にイルカの後を辿らせた。
壮絶な戦いの後が其処彼処に残されていた。
無残に転がる死骸にカカシの背筋をヒヤリとしたものが走る。

何だ?俺は何を恐れているんだ?

カカシは自問自答した。

イルカの死を、恐れているのだ。
イルカを死なせるわけにはいかない。
イルカを憎まなければ、俺は生きていけないのだから。

戦いの場は拡散しているようだった。戦力を散らしているのか、散らされているのか。

と、その時。
不意に忍犬がワン、と吠えて煙と共に姿を消した。カカシはハッとした。
前方からイルカのチャクラと、もう一つ別のチャクラを感じた。二つのチャクラはぶつかりあって、応戦しているようだった。
どちらのチャクラも弱々しく、相当消耗されていた。まだどちらが優勢とも言えない状態だったが、戦いが長く続くとは思われなかった。
嫌な予感に、カカシの心臓が破裂しそうに早鐘を打った。

早くイルカのところまで辿り着かねば。

先を急ぐカカシの、その瞳がようやく前方にイルカの姿を捉えた瞬間、対峙する敵が素早く印を組むのが見えた。

あの印は...!

カカシは目を疑った。自爆するつもりか...!?

「そこから逃げろ!」

カカシは全速力でイルカに駆寄りながら、思わず叫んでいた。イルカはその声に弾かれたように、カカシの方へ体を向けた。だが満身創痍で消耗しきったイルカが、逃げ切れないだろう事は分かっていた。カカシは夢中だった。目前にイルカが見えているのに、俺は間に合わないのか。

どうか、間に合って....!

カッという閃光がカカシの視界を真っ白に焼き尽くした瞬間。
伸ばした手が、求めていたものに確かに届いた。





暗い意識の底を、カカシは揺蕩うていた。

俺は死んでしまったのか。

カカシは混濁する意識の中で漠然と思った。

俺は死んだのかもしれないな、あの爆発で。
あの爆発で....
イルカは。
イルカはどうしたんだろう。

カカシはそう考えてハッとした。自分の意識が急速に覚醒するのを感じた。

そうだ、イルカは。イルカはどうなったんだ。
死んでしまったのか。

イルカ...!

そう思った瞬間、暗かった世界が突然明るいものに変わった。しばらくして、カカシは自分が目を開けたのだとわかった。始めのうちは霞んで良く見えなかった目が、徐々に視力を取り戻していくと、すぐ自分の近くにイルカの顔があった。近いはずだった。よく見るとカカシはイルカの体に覆い被さるようにして倒れていた。

イルカは目を閉じたままだった。ピクリとも動かない。
イルカ、とカカシはその名を呼ぼうとした。だが、口が上手く動かなかった。
その頬に手を伸ばし、ぬくもりを確かめたいと思った。だが、手足の感覚は全く無く、指先すら動かすことは叶わなかった。
それでもカカシは辛うじて動かせる頭を主軸にして、渾身の力を込めて、自分の体を少しだけ摺り下げた。

イルカの胸の上に、自分の顔が来るように。

カカシは祈るような気持ちで、その胸に頬を寄せた。


音が、聞こえた。
トクトクトクと、小さいけれど。
確かに脈打つ、イルカの鼓動が。

カカシは心がどうしようもなく震えるのを感じた。言い様の無い感情がワッと込み上げる。

生きている。
イルカが。
生きている。

カカシは何度も何度もその頬をすりよせて、イルカの鼓動を確かめた。
何度でも、確かめたかった。
何度もそうして確かめているうちに。

カカシは涙を零していた。

止めど無く溢れる涙がカカシの頬を伝い、イルカの上に染みを作った。

後から追いついてきた深い安堵と喜びが、カカシの心を満たしていく。
カカシの心は今、はちきれんばかりだった。

こんなことが以前にもあった。

カカシは滲む視界に、不思議な既視感を覚えていた。

いつのことだったのか。

俺は愛しい人の胸に頬を寄せて、その鼓動を確かめたのだ。
トクトクと鳴る、その鼓動を聴いて、俺は喜びと安堵に胸を震わせたのだ。

その時も俺は何度も確かめた。愛しい人の胸に頬を寄せて。
その鼓動を聴いていた。

イルカの鼓動を。

他のことは、何も覚えていないのに。
記憶の中にイルカの姿は無いのに。
全て、失くしてしまった筈なのに。


その鼓動の音だけが鮮明に自分の中に残っていた。


自分を犠牲にしてでも。守りたかった、その鼓動を。




俺は、イルカを愛していたのだ。



続く