(17)


イルカが幸せを感じる時。そこにはいつもカカシがいた。
散歩道を、誰かに見つからないかと冷や冷やしながら、手を繋いで歩いたり。
布団の上をじゃれあいながら、ゴロゴロと転がったり。
いつもそんな他愛のないことに、幸せを感じた。

愛する人がいるだけで。

そうだ。そうなのだ。カカシに欠けているのはそれだったのだ。
誰かを愛してその幸せを感じて欲しい、とイルカは思った。幸せになって欲しい。
その相手が自分であれば、と夢想すると同時に、その相手に自分はなれないことも分かっていた。
憎しみという暗い感情は、カカシに苦しみしか与えない。そんなものに固執していて、カカシが幸せになれるはずない。苦しみを与えているのは自分だった。自分が憎しみの元凶なのだから。もう、自分にできることは何もないのだ。カカシのために。
その結論にイルカの胸はズキズキと痛んだ。

自分ではなくてもいい。イルカは自分に言い聞かせた。
カカシが幸せならば、それで。

カカシに誰か愛する人ができれば。

だから、それまでは。





カカシはその夜突然やって来た。イルカが殴って以来、久しく会っていなかった。
扉を開けた途端、血の臭いがプンとした。怪我をしていると思った。それもかなりの。
カカシの顔に色濃い疲労と憔悴が見て取れた。
任務だったんだ、とイルカは思った。カカシの怪我の具合が気になった。ちゃんと処置はしたんだろうか。自分を大切にしない人だから。

カカシは無言のまま、イルカを引き摺るようにして部屋の中に押し入ると、いきなりイルカを押し倒した。

まさかこんな状態で、カカシはセックスするつもりなのか。だとしたら正気の沙汰とは思えない。
イルカはそれが杞憂であることを祈った。
しかし、イルカの懸念はカカシがイルカのズボンに手をかけた時、現実のものとなった。

「駄目です!....止めてくださいっ!」イルカは慌てた。抵抗する時に触れたカカシの手が、とても熱かった。熱が出ている証拠だ。

イルカは抗う手に力を込められなかった。カカシの怪我に障るのではないかと思うと恐ろしかった。立ち込める血の臭いは一層濃いものになっていた。何処を怪我しているのかとイルカは思った。手足では無さそうだった。今、自分が押し返している胸でもないだろう。では、背中か。
イルカは片手でカカシの手を押し止めながら、片手をそろりとカカシの背中に回した。途端にイルカの手のひらを、生ぬるいものが濡らした。イルカがハッとして手を引くと、その手は赤く汚れていた。

やはり、傷口が開いてるんだ....!

「カカシ先生っ...怪我...怪我してるじゃないですか!」今更ながら、イルカは叫んだ。

「傷が開いてるじゃないですか。手当てさせてください!お願いします....!」

カカシは何の反応も示さなかったが、イルカも必死だった。お願いします、と何回も頼んだ。お願いします、お願いします、お願いします....

すると突然、カカシの体がビクンと跳ねた。と同時にウッと呻き声を上げる。カカシの顔が苦痛に歪んでいた。
それを合図に、カカシの体が糸の切れた操り人形のように、くたくたと崩れ落ちた。遂に限界が来たのだ。

カカシは朦朧としていたが、意識はあるようだった。イルカは救急箱を手にすると、大急ぎで傷の手当てを始めた。カカシをうつ伏せにすると、その背中の布地に血が染み出ていた。イルカは慎重にカカシの上着を捲り上げて、思わず息を呑んだ。

ひどい...

ばっさりと袈裟懸けに、抉るように切られた傷が、ぱっくりと口を開けていた。大雑把な縫合の跡があったが、それはもう役目を果たしていなかった。

全く。無茶するから。

イルカは腹立たしい気持ちになりながらも、手当ての手を休めなかった。カカシは珍しくイルカの手を振り払わずに、イルカにされるがままになっていた。ぐったりとして、抵抗する余力もないようだった。最後に包帯を巻くために、イルカはカカシの体を抱き起こした。カカシの体は全く力が入らない様子だった。イルカは仕方なく、カカシの頭を自分の肩に乗せるようにして、自分に寄りかからせた。そうしてカカシの体を支えながら、イルカはクルクルと包帯を巻いていった。その静かな時間に幸せを感じる自分を窘めながら。

その時カカシがポツリと零した。

「俺はあんたが憎い....。」

イルカはドキリとして、包帯を巻いている手を止めた。

「俺の右足はもう使い物にならない。あんたを庇って傷ついた右足が、俺から全てを奪う。忍としてしか生きられないのに、それを奪われたら俺はどうしたらいいんだ?何のために...生きたらいいんだ?....俺は、俺は...あんたを憎まずにはいられない。あんたを憎むことでしか、生きていけない。」

忍として生きられない。
イルカを庇った傷のせいで。

告げられた真実にイルカは愕然とした。例えようのない衝撃が体を走る。

そうだったのか。それでカカシ先生は俺を。そうだったのか。

イルカはようやく納得した。
イルカを嬲りながら、泣いていたのはカカシの方だったのだ。絶望を感じていたのはカカシの方だったのだ。
だが、カカシはそれに縋るしかなかったのだ。憎しみに縋るしか。

イルカの胸がきりきりと痛んだ。
今まさにカカシは絶望の淵に沈むまいと、必死に縋っているのだ。憎悪という藁に。
それはカカシを救うことはないけれど、確かな手がカカシを引き上げるまでは。それまでは。

「俺のことは、憎んでください。俺に、非道くしてください。それであんたが楽になるなら。」

でもそれだけでは、あんたは救われないから。

「そして...誰か他の人を愛してください。愛するために生きて、幸せになってください。」

憎しみを上回る感情が、あんたに訪れることを願う。そして。

「その時、俺を...憎しみを...捨ててくれればいいです。」

あんたを不幸にしかしないものは、切り捨ててくれればいい。


もう、それで。
それでいい。

愛しい人が幸せでありますように。


イルカの言葉をどう取ったのか、カカシがぼそりと「俺はあんたを愛せない」と呟いた。
それはもう分かっていることだったが、実際はっきりと口にされると、イルカは胸が締めつけられるようだった。

それでもいいんです。
あんたが幸せなら。

イルカは言葉にしないで、優しくカカシを抱きしめて応えた。



続く