(16)

扉を開けたイルカが驚いた顔をしていた。カカシは有無を言わせず、部屋の中に強引に押し入ると、イルカを捩じ伏せた。
イルカは大した抵抗もしなかった。カカシを見つめるイルカの瞳は戸惑いに揺れていた。

この男を憎めばいいのだ、とカカシは自分に言い聞かせた。
もうこの男を憎むしかないのだ。今までも散々そうしてきたように。
憎んで憎んで。憎悪のままに、この男を陵辱して。踏み躙って。絶望の淵に沈めて。

そうしなければ、俺は。生きていくことすらできない。

非道くしてやろうと思っていた。イルカが嫌がってどんなに抵抗しても。

カカシがイルカのズボンに手をかけ、乱暴に引き摺り下ろそうとすると、そこではじめてイルカは抵抗の色を見せた。

「駄目です!....止めてくださいっ!」

しかし抗うイルカの手は、いつもより弱々しいものだった。力を入れることを怖れているようだった。

「カカシ先生っ...怪我...怪我してるじゃないですか!」
傷が開いてるじゃないですか。手当てさせてください。お願いします。お願いします。
イルカが必死に叫ぶ。

そのイルカの必死な姿を見ていたら、堪え様もないほど右足が痛んだ。それに呼応するかのように、限界まで疲労していた体が悲鳴を上げるのを感じた。やばいと思ったときには、カカシの体はグラリと揺れて、イルカに覆い被さるように倒れ込んでいた。

「カ、カカシ先生!?し、しっかりしてください!」

それからのイルカの行動は素早かった。慎重にカカシの下から抜け出すと、救急箱を取り出し、カカシの傷の手当てを始めた。イルカは手早に開いた傷口を縫合して消毒を済ませると、包帯を巻くために、カカシに起きあがれるかと訊いてきた。黙っていると無理矢理起こされた。イルカは力の入らないカカシの体を、自分に寄りかからせるようにして、正面で抱き合うような姿勢で包帯を巻いた。カカシはされるがままだった。予想通り上がってきた熱に、カカシは半ば朦朧としていた。カカシは熱に浮かされて、言うつもりのなかったことを口にしていた。


「俺はあんたが憎い....。」

包帯を巻いているイルカの手が止まった。

「俺の右足はもう使い物にならない。あんたを庇って傷ついた右足が、俺から全てを奪う。忍としてしか生きられないのに、それを奪われたら俺はどうしたらいいんだ?何のために...生きたらいいんだ?....俺は、俺は...あんたを憎まずにはいられない。あんたを憎むことでしか、生きていけない。」

他に、どうしたらいいというのか。

泣き言だ、とカカシは思った。これは泣き言だ。こんなこと、イルカに言うつもりはなかったのに。

イルカはカカシの言葉を黙って聞いていた。そして言った。

「俺のことは、憎んでください。俺に、非道くしてください。それであんたが楽になるなら。そして誰か他の人を愛してください。愛するために生きて、幸せになってください。その時、俺を...憎しみを...捨ててくれればいいです。」

イルカの顔は見れなかったが、その声はとても愛しげだった。

何を言っているんだ、とカカシは思った。そんな愛しげに。そんな馬鹿馬鹿しいことを。
そう言いたかったが、泥のような睡魔がカカシの意識を彼方に追い遣ろうとしていた。
凭れかかったイルカの体から伝わる体温が心地良かった。
足の痛みも。背中の痛みも。軋むような疲労も。
今は不思議と感じなかった。

誰かを愛するなんて。
できるわけがない。
自分も愛することができないのに。

お前達は付き合っていたんだ

アスマの言葉が今更頭の中をぐるぐると回る。

でも駄目だ。俺は何も覚えていないのだから。忘れてしまったのだから。
それがどんなものだったのかも。

俺はあんたを愛せない。

カカシは眠りに意識を誘いこまれながら、小さく呟いた。

憎しみしか知らない。

するとそれに答えるように、イルカの腕がキュッと優しくカカシを抱きしめた。

全てを、許すように。


そのぬくもりに包まれながら、カカシは意識を手放した。




カカシを殴ったあの日から、イルカはずっと考えていた。

どうしたらカカシは自分を大切にしてくれるのか。
どうしたらカカシは幸せになれるのか。

それは痴がましいことなのかもしれないけど。






「俺、カカシ先生に憎まれてるんです。」イルカは杯を手の中でユラユラと揺らして玩びながら、ぽつりと呟いた。

カカシを殴った翌日、イルカはアスマと酒を飲みに来ていた。珍しくイルカの方から誘った。アスマに話を聞いて欲しかった。それはアスマに相談するというよりも、アスマに話すことによって、自分の纏まらない考えを整理したかったからだ。アスマは快く承知してくれた。いつもより落ち着いた雰囲気の割烹に腰を据え、暫くは他愛のない話をして、体に程よく酔いが回るのを待った。やはり素面では言い難い話だった。

そしてようやくイルカが口にした言葉にアスマは顔を顰めた。

「憎まれてるって、お前ぇ...」アスマはどう答えていいのか分からないようだった。それを誤魔化すように、クイッと杯を呷った。

「俺に憎しみをぶつける事で、カカシ先生の気が少しでも晴れるなら、それでもいいかと思っていたんですけど...。」

「そりゃあ、違うだろ。」今度はアスマは即答だった。

「その場凌ぎにはなるかもしれねえが、解決にはならねぇだろ。あんまり良い傾向じゃあねえなぁ。」そう言って、イルカを諌めるような目で見た。

わかってますよ、とイルカは肩を竦めた。

「分からないのは、俺はどうしたらいいのか、ということなんです。」
この状態が良くないことは分かっている。
でも自分に何ができるというのか。カカシに憎まれている、自分に。

「カカシ先生に、自分を大切にしてもらいたいんです。そして、当たり前に幸せになって欲しい。それには俺はどうしたらいいんでしょうね。」

あれからずっと考えていたことだ。でも考えても考えても、どうしても答えは見つからなかった。いつも堂堂巡りだ。

「へっ、そんなこと俺に訊くもんじゃねぇ。俺ァ、あいつのことを地獄に落ちやがれって思ってるんだからよ。」

アスマの軽口にイルカは思わず笑ってしまった。アスマはイルカの笑顔を見て気を良くした風だった。心配をかけているな、と今更ながらイルカは申し訳なく思った。アスマは、まぁ飲め、とイルカに銚子を傾けた。イルカがチビチビとやっていると、アスマが、そんなに難しい問題じゃねぇだろ、と独り言のように呟いた。イルカはハッとして思わずアスマの横顔を見つめた。アスマはイルカの方を見ずに、手元の鰻ざくを突付きながら言葉を続けた。

「イルカ、お前はどんな時幸せなんだ?どんな時、そう思う?」

アスマの言葉にイルカは目を瞬かせた。

どんな時、俺が?

きょとんとするイルカの様子にアスマは苦笑した。

「まぁ、考えてみるこった。答えは自分で見つけるもんだ。」そう言った後でアスマはわざとらしく嘆いた。あんな馬鹿のためにそこまで。

俺も馬鹿なんです、と笑って答えるイルカに、やってられないとばかりにアスマは手をヒラヒラと振って見せた。

イルカは、何かを掴み掛けた気がした。


続く