冬至

少し熱めの湯を張った風呂に、切込みを入れた黄色い球果を2個、無造作に放り込む。途端にイルカの鼻腔を爽やかな柑橘の香りがくすぐった。イルカはその香りに満足しながら、ゆっくりと湯船に身を沈める。

柚子湯はいいなあ。

今日は冬至だった。イルカは両親がそうであったように、古来の季節の行事を大切にする性質だった。特に風呂好きなイルカは、柚子湯や菖蒲湯に入る機会を忘れる事は無かった。柚子湯に浸かりながら、これでまた1年無病息災でいられる、とイルカは至極真面目に思った。

なんか本当に疲れが取れるよな。

師走の忙しさに連日残業続きでイルカは疲れ切っていた。その上残業で遅くなった冬の帰り道は身を切るような寒さで、事実イルカは毎夜歯の根も合わぬほど体を震わせていた。そのためアパートの鍵穴に鍵を差し込むのにいつも一苦労だった。
しかし、こうして柚子の芳しい匂いを嗅ぎながら熱い湯に身を浸していると、そうした疲れも寒さもすっかり癒されてしまう。不思議なもんだな、とイルカは思いながらも、柚子湯の心地良さが癒してくれない心の不安に小さく嘆息した。イルカの心の不安とはカカシに関することだった。予定した帰還日より十日が過ぎようとしていたが、カカシは未だに帰還を果たしていなかった。帰還日が遅れることはよくあることだった。だが、十日もずれ込むことは滅多に無かった。

大丈夫...だよな。俺は心配し過ぎなんだ。
帰還が遅れても、カカシ先生はいつも必ず帰って来ていたじゃないか。

神妙な顔をして落ち込む自分の頬を、両手で挟むようにピシャリと叩く。だが気分を浮上させるためにはそれだけじゃ足りなくて、イルカは柚子湯で自分の顔をバシャバシャと何回も洗った。自分の馬鹿げた不安を洗い流すように。

するとその時。

風呂場の戸がガラッと勢いよく開けられた。
えっ?とイルカが驚いて洗っていた顔を上げると、そこにはカカシが立っていた。真っ裸で風呂に入る気満々のカカシが。

「カ、カ、カカ、シせんせい....っ!?」

カカシのあまりに突然で非常識な登場の仕方に、イルカは度肝を抜かれていた。素直に、無事帰って来て嬉しい、と言葉に出来ない状況だった。

「イルカ先生、只今帰りました〜!」

そう言ってニコニコと笑顔を浮かべるカカシの小脇に何かが抱えられていた。
それが何なのかイルカが確認する前に、カカシはその謎の物体を、えいや、とばかりに猛烈な勢いで湯船に投げ込んだ。
ボチャン!という水を叩く音と共に、大袈裟なほどの水飛沫を上げたその物体は。

「かぼちゃ....。」

ぷかぷかと柚子湯にその身を漂わせていたのは、とても立派なかぼちゃだった。何故かぼちゃを湯船に?カカシの突拍子の無い振る舞いにイルカは癒されていたはずの疲れが、再びドッと押し寄せるのを感じた。

カカシは遠慮会釈なく当然の事のように浴槽に足を入れながら言った。

「今日は冬至でしょ?だからかぼちゃをお風呂に入れなくちゃ〜ね。」

しかし、そう口にした後で既に浴槽に浮かんでいた柚子の存在に気がついて、カカシは「ん〜?」と首を傾げた。イルカは脱力していた。先程までの俺の悲しくなるほどの不安は何だったんだ。

「カカシ先生....冬至には柚子湯に入るんです。無病息災を願って。かぼちゃは...食べるんですよ。冬至に食べると、金運がつくって言われてるんです。かぼちゃは風呂には入れません。知らなかったんですか...」

イルカの言葉にカカシは「あ、そうだったの。じゃあこれは後で食べましょう。イルカ先生、煮てください。」と、どうでもよさげに答えた。カカシはもうかぼちゃも冬至もどうでもよくなっていた。爽やかな柑橘の匂いをさせる、イルカの肌に口付けるのに夢中だ。

「イルカ先生...いい匂い...冬至っていいですねえ〜」うっとりとほざくカカシに、イルカは呆れたような表情を浮かべる。

こんな変な人いやだ...

イルカは心底そう思うのに、不安に凍えた心が心地良く暖まっていくのを感じた。柚子湯が唯一癒してくれなかったものが。暖かく、解れて。
イルカはぷかぷか浮かぶ柚子を手にとって、カカシの頭の上でギュウっと絞った。ささやかな報復だった。

「うわ、何するんですか〜?」とカカシは抗議の声を上げながらも嬉しそうだ。悪戯をする手を止めることもない。

イルカは柚子の香りをさせるカカシの髪に口付けながら。密やかに願った。

目の前のこの憎らしい人に、如何なる病も災いも訪れませんようにと。


終り
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