君に願いを

変だと思ったのだ。イルカが千羽鶴を一人で折っていた時に。

「生徒にも折らせればいいじゃないですか。入院したって言ってた子供のお見舞いなんでしょ?それ。」
何もイルカ先生一人で千羽も折らなくても。

手伝おうとカカシが折り紙に手を伸ばすと、イルカが慌ててその手を制した。

「あの、カカシ先生の気持ちは嬉しいんですけど、俺一人でやりたいんです。」

そのあまりに真剣な眼差しに、カカシもそれ以上何も言えなくなってしまって、「はあ、そうですか。」と間抜けな返事をしただけだった。それが始まりだった。その後もイルカは奇妙奇天烈な行動をとった。この前は山ほど摘んできた蓮華をせっせと編んでいた。カカシが仰天して「こんなに沢山の蓮華を編んで、一体どうするつもりですか?」と呆れ顔で尋ねると、イルカは至極真面目な顔で「蓮華で絨毯を作るんです。」と答える。そしてやはり、カカシが手伝おうとしても手伝わせてくれない。先日の日曜日は川底の白い石が沢山欲しいのだと言って、まだ春の冷たい川の中に何時間もいたものだから、遂にイルカは今日熱を出して倒れてしまった。

「今日は何もしちゃいけません。外出禁止です。一日大人しく寝ていてくださいよ。」

カカシは任務に出掛ける前にイルカに念を押した。

「はい。分かってます。」

イルカは布団の中から熱で赤い顔を覗かせながら、悄々と頷いて見せた。

怪しい、とカカシは思った。素直過ぎる。

「もし、この言い付けを守らなかったら、お仕置きですからね。」カカシは用心深く先手を打った。

お、お仕置き!?と、途端に動揺したイルカの声が上がる。やはり何かするつもりだったな、とカカシはジト目でイルカを見ながら、お仕置きです、と繰り返した。何やらウンウン唸り出したイルカを横目に、これで安心だとカカシはほくそ笑んだのだった。

しかし、その考えが甘かったことを、カカシは身を以って知ることになる。
大急ぎで任務を終えて家に帰ってみると、息も絶え絶えといった様子で、台所の床にイルカが倒れていたのだから。

「イ、イルカ先生!?」

カカシが慌てて駆寄ると、食卓に広げられた藁半紙の上に並べられた、夥しい数の星型のクッキーが目に入った。漂う甘ったるい匂いと其処彼処に零れ落ちた小麦粉の白い粉が、カカシの疲労をより濃いものにした。

まさか。作ってたの、コレ......

カカシがあまりの驚きに一瞬呆然とした時、足元に転がるイルカが正気付いて、「あ...お帰りなさい...カ、カカシ先生...」と朦朧とした表情で言った。カカシは自分の堪忍袋の緒がブチリと切れる音を聞いた。

「お帰りなさいじゃないでしょ。あんた何やってんですか!?」

カカシが怒気を孕んだ声で一喝すると、イルカはばつがわるそうに、「クッキー作ってました.....。」と正直に答えた。

馬鹿か!

カカシは喉元まで出掛かった言葉を、既のところで呑み込んだ。

40度の熱があるのに、クッキー作ってただと!?イルカは馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿だ!

カカシは心の中で思う存分イルカに悪態をついた。

こんなに心配してるのに。
あんたって人は。

カカシの気持ちを余所に、イルカがそわそわと時計の針を気にし始めた。イルカの奇妙奇天烈な行動の理由を、全て知っているわけではないが、これからイルカがどうしたいかは分かった。カカシは嘆息した。

だけど俺が一番馬鹿だ。そんなあんたを好きなんだから。

「イルカ先生は寝ていてください。」カカシはイルカを布団へと促した。

「で、でも...」渋るイルカにカカシはニッコリと笑って見せた。

「このクッキーを病院に届ければいいんでしょ?俺が行って来ます。」




面会時間はとっくに過ぎていたので、カカシは窓から不法侵入した。
イルカがクッキーを届ける相手、イルカの教え子の12歳の少女は、消灯を過ぎて明りの落ちた中、それでも眠らずにベッドの上でじっと目を開けていた。
カカシの姿に驚いた風でもなく、少女はただポツリと呟いた。

「イルカ先生は?」

「40度の熱を出して倒れてる。」誰かさんのせいで、とカカシは小さく付足して、少女にクッキーの入った箱を手渡した。

「それでも約束のものは作ったよ。力尽きて台所で倒れてたけどね。」

少女は痩せこけた手で、その箱の蓋を一生懸命開けようとした。もう力が入らないようだった。カカシは肉の削げ落ちた少女の頬を見ながら、この頬は少し前まで林檎の様に輝いて、マシュマロのようにふっくらとしていたのだろうなと思った。全ての少女がそうであるように。少女はやっとのことで蓋を開け、箱の中を見た瞬間、この上ない歓喜の表情を浮かべた。だがすぐ次の瞬間には泣きそうに顔を歪めた。そして震える手でそれを床に叩き落した。

「もう、いらない。」

カカシは予想外の出来事に暫し呆然としたが、すぐに我に帰った。

「おまえ、子供だからって何でも許されると思うなよ?おまえのために、どれだけイルカ先生が一生懸命か、分かってんの?我侭も大概にしろ。」

大人気ないとは思いつつも、カカシは言わずにはいられなかった。これまでのイルカの奇妙な行動は、この少女の我侭に付き合っていたからなのだ。それをイルカの口から聞いた事はなかったが、鶴を折ると、蓮華を編むと、小石を拾うと。イルカはいそいそと、それを病院の教え子の元へ運んでいたことをカカシは知っていた。カカシはイルカが一体どうしてそこまでするのかわからなかったが、今少女の姿を目にして分かった。少女はもう助からないのだ。

少女はカカシの言葉に怒ったような表情を浮かべた。

「だって、私が欲しいもの、全部くれるって言った。出来る事は何でもしてくれるって。だから我侭言うの。我侭言って、いいんだもん。」

あの人、そんな事言ったのか、とカカシは少し、いやかなり面白くない気持ちになった。目の前の少女が一端の女の目をして、イルカを見ているのも気に入らなかった。あの人は子供に甘すぎる。死に行くものに甘すぎる。相手は思っているほど子供じゃないというのに。死に行くものほど貪欲だというのに。

「こんなに我侭きいてもらって、何が不満かね〜。」これだからお子様は、とカカシは独りごちて、床のクッキーを拾うと少女の胸に押しつけた。

「これ、どうしようと勝手だけど、俺が消えるまではそうやって大切に持ってて。」カカシは苦々しくそう言うと、サアッと姿を消した。

それをぼんやりと見つめながら、ひとりぽっちになった病室で、少女は誰に言うともなく呟いた。

「一番欲しいものは、駄目だって言った....だから本当は何を貰っても、駄目なの....」




間もなくして少女は亡くなった。小児ガンで進行が早く、手の施しようがなかったという。
イルカは少女の墓に手を合わせたまま、長い間動けないでいた。

「俺....結局、何にもしてあげられなかった....。」

イルカが心底辛そうに呟いたのを聞いて、墓参りに付き合っていたカカシが素っ頓狂な声を上げた。

「えぇ!?あんた何言ってるんです?あんなに我侭をきいてあげてたじゃないですか!あれ以上何をするっていうんです?あんたに出来る事は全部しましたよ。大好きなイルカ先生にあそこまで尽くしてもらって、あの子も本望でしょうよ。」

ちょっと拗ねたようなカカシの言葉に、イルカはドキリとした。

大好きなイルカ先生。

それは少女の口からも零れた言葉だった。あの日少女はイルカに告げた。

大好きなイルカ先生。
私、イルカ先生の好きが欲しい。
死ぬまででいいから。
イルカ先生の一番好きを私にちょうだい。

死に行く、いたいけな子供の願い。叶えてあげたいとイルカは思った。例え気休めでも。
だが、少女はそんなものを求めていなかったのだ。同情と嘘で塗り固められた言葉は少女を傷つけるだけだと気付いた。
同じ人として、少女に向き合わねばと思った。子供と大人という視点ではなく。だからイルカは言った。

それは駄目だよ。あげられない。
だってもう、それはあげてしまったんだ。

だから、それ以外は全部あげる。欲しいものを、全部あげるよ。
俺に出来る事は何でもするよ。

イルカは思い出してギュッと目を瞑った。
嘘をつけなかった。嘘をつきたくなかった。でもそれで本当によかったんだろうか。
イルカの心を罪悪感と後悔が責めたてる。

「あの子の本当に欲しいものを、あげられなかったんです...」イルカは懺悔でもするような気持ちで言った。

カカシはイルカの言葉に心底呆れたようだった。

「贅沢なんですよ、何でも貰おうなんて。俺なんて可愛いもんですよ。ひとつだけでいいんですから。」

そう言って、カカシはへの字になっているイルカの口の端を、自分の指でギュギュッと押し上げた。

「あんたの笑顔だけで、いいんですから。」

ね?と目を細めてカカシが笑った。

その笑顔があまりに優しくて、あまりに切なくて。
イルカも笑顔で応えようと努力してみたが、零れる落ちるものが邪魔をして、その努力は実らなかった。


             終り
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