「歌を歌おう」連載第9回

近付いて来たカカシはイルカのすぐ横に立つと、徐にその指を鍵盤の上に下ろした。

えぇ?...カカシ先生、ピアノを弾くつもりか...?

驚いたイルカは思わずピアノを弾く手を一瞬止めてしまいそうになったが、カカシがイルカの演奏に合わせるようにピアノを弾き始めると、イルカは慌てたように演奏を続けた。

カカシ先生、ピアノ弾けたのか...

何が何だかわからなかった。何故突然カカシはピアノを弾き出したのだろうか。今日のカカシの行動はいつもと違い過ぎて吃驚する。そう思いながらも何も聞くことが出来ず、イルカは黙々とピアノを弾き続けた。
更にイルカが驚いたことには、カカシはとてもピアノが上手だった。
たどたどしいイルカのピアノを時にはリードするように、時にはフォローするようにして、カカシはピアノを奏でた。カカシの奏でる音色はひどく優しく透明でありながら、何処かイルカの心を切なくさせる憂愁を帯びていた。

こんなにピアノが上手いなんて....

イルカはカカシの演奏に感嘆しながらも、自分の下手糞な演奏が恥ずかしくなった。今更だが、カカシはどんな気持ちで自分のピアノを聞いていたのだろうか。想像しただけで居た堪れない。今まではこんな演奏でもカカシにとっては何らかの慰めになっているような気がしていたが、カカシのピアノを聞いた後では何だかそれも思い違いのような気がしてきた。
イルカは横目でチラと鍵盤を叩くカカシの指を見遣った。
長くて綺麗なカカシの指が、繊細なタッチで鍵盤の上を流れるように滑る。イルカはその流麗な動きにぼんやりと見惚れてしまって、手の方がお留守になってしまった。するとカカシのピアノがその先を促すように、少し窘めるように鍵盤を叩く速度を緩める。イルカがハッとして再び弾き出すと、クスリと小さく笑う声が聞こえた。その声にイルカは頑なに下へ向けていた顔を思わず上げてしまった。

瞬間イルカはドキリとした。
カカシがこちらを見て笑顔を浮かべていた。
少年のような笑顔だった。

うわ...カ、カカシ先生の笑顔、初めて見た...

カカシが自分に向ける表情はいつも、苛立ちと厭わしさに満ちていた。だからその初めて見る好意的な表情に、イルカは嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになった。意識した途端に自分の顔がカーッと赤くなるのが分かって、イルカはそれを隠すようにすぐまた俯いてしまった。だが今度はピアノを弾く手を止めなかった。何故だか知らないけど、カカシは自分との連弾を楽しんでいるようだった。しかもあんなに優しい笑顔を浮かべて。カカシには嫌われていると思っていただけに、イルカはとても嬉しかった。だから今はカカシの気が済むまでピアノを弾き続けようと思っていた。風邪の方は大丈夫なのかなあ、と少し心の片隅で心配しながら。


あんなに混乱していたのに、とカカシはいつもの事ながら不思議に思う。
イルカのピアノを聞いていると、色々思い煩っていたことがどうでもよくなる。
始めのうちは昨日の事が気になって苛々していた。苛々している上に何だか苦しく胸が痛い。
自分で自分が分からなかった。もう帰ってしまおうかと思うのに、体は当たり前のようにいつもの席に腰を下ろし、いつものようにイルカの下手糞な演奏に耳を傾ける。

イルカは本当に下手だ。
何時までたっても上達しない。

俺が弾いた方がましだ、とカカシは思った。カカシはピアノを触ったことすらなかったが、イルカの練習に毎日付き合っているうちに、曲は勿論その指運びまで全て覚えてしまった。カカシは練習したことがないにもかかわらず、イルカより上手く弾ける自信があった。
だけど、カカシには分かっていた。どんなに上手に弾けても駄目なのだ、と。

俺がどんなに上手に弾いても、あの優しい時間を感じることはできないのだ。
どうしてなのかイルカのこの下手糞なピアノだけが、あの時間を連れて来てくれるのだ。

目を瞑ると、黒髪の少年と、金の髪のあの人の姿が。
目を開けると、イルカの姿が。

優しく輝く時間の中にある。

俺はその光景を指を咥えて見ているだけだ。煤けた音楽室の片隅で。

カカシは我知らず席を立ってイルカの方へ近付いていた。自分の座っていた場所よりイルカの周りの方が明るい気がした。一生懸命にピアノを弾くイルカを見つめながら、カカシは考えていた。

俺でも。
俺のピアノでも。
一緒に弾いたら音を変えるだろうか?
イルカと一緒にピアノを弾いたら、俺もまた優しく輝く時間を奏でることができるだろうか?
こんな俺でも。

その思いのままに、イルカの傍らに立ったカカシは鍵盤に指を下ろした。
イルカのピアノの音に自分のピアノの音が重なった瞬間、カカシの胸は震えた。
過去に置いてきてしまった気持ちが、じわりと胸に広がる。
イルカは驚いているようだったが、黙ったままカカシの演奏に合わせてピアノを弾いてくれた。
カカシのピアノの音に、イルカのピアノの音がたどたどしくも優しく寄り添い、睦まじく音を重ねる。
時には追いかけるように、時には勇み足に追い抜いたり、じゃれるようにしながら。
カカシは何時の間にか夢中になっていた。

弾けば弾くほど。
優しく輝く時間に包まれていく。
しかもそれは錯覚ではなかった。過去の失われたものではなかった。
今自分はまたあの優しい時間の中にいるのだ。
自分の奏でる音色は今やイルカの音色と同じものになっていた。

優しく輝く時間を奏でる、あの音色に。

カカシは過去に置いて来てしまったものが、自分を追いたてるのを感じた。それに恐れ戦きながらカカシはピアノを弾き続けた。
ずっと弾き続けていたかった。


何時の間にかいなくなっちゃうからな。早めに言っとかないと。

イルカは暗くなってきた音楽室の様子に焦りながら、ピアノを弾く手は止めないまま、カカシに向かってボソリと言った。

「あの...カカシ先生、この練習もあと5回なんです。そうしたらもう本番なので…」

イルカの言葉に、ピアノに夢中になっていたカカシの手が止まる。

「それで俺、カカシ先生が練習を聞きに来てくれたお蔭で励みになたっていうか...挫けずに頑張れたと思うんで、何かお礼をしたいなと思って。それで飯でも食いに行きませんか?今日は急なんで、今度カカシ先生の都合がいい時に。大したもんじゃないですけど、俺にご馳走させてください。」

イルカは本当にそう思っていた。カカシに嫌われていても、そう言葉をかけるつもりだった。また無視されるかと思っていたが、思いがけずカカシが返事をした。

「別に...俺、あんたのピアノを聞きに来てた訳じゃないし...何言ってんの?」

「えっ...」

イルカは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。まさかそんな答えが帰って来るとは思っていなかった。

そ、そうなのか?じゃ、じゃあ、カカシ先生は一体何をしに音楽室に来ていたんだ...?

狼狽するイルカに、何故かカカシもひどく動揺しているようだった。

「....」

「....」

気まずい沈黙が二人の間に落ちた。

ど、どうしたらいいんだ?それじゃあ今の話はなかったことに、とは言えないし。

イルカが焦っているとカカシが沈黙を破って言った。

「ご馳走になります....」

ええええ!?とイルカは統一性のないカカシの発言に、内心戸惑いの叫び声を上げながらも、「は、はあ...」と間の抜けた返事をした。

なんだか本当に変だな、今日のカカシ先生は...

調子が狂うな、とイルカは脱力しながらも、カカシが断らなかったことをかなり嬉しく思っている自分に驚いていた。


つづく


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