「歌を歌おう」連載第8回

イルカは謎の靴跡を前に、瞬間固まったまま動けなくなってしまった。この靴跡は一体どうしたことだろうか。もしや知らぬ間に泥棒が?いや、荒らされた形跡もないし、第一俺の家には盗む物なんて何もない。俺は昨日一日中、外に出てないし。それとも俺は熱に浮かされて、靴を履いて家の中を歩き回るような奇行をしたんだろうか。そんな馬鹿な。有り得ない。それにこの靴跡は自分のものより若干大きいような気がする。一瞬のうちにイルカの頭の中を様々な推理が浮かんでは消える。
そしてその靴跡が語る、最も可能性の高い事実に思い至って、イルカは「まさか、」と思わず声に出して叫んでいた。

まさか...カカシ先生が来てた...?

あの至近距離でカカシの顔を見つめる夢が、妙にリアルだったのはその所為ではないだろうか?もしそうだとしたら、昨日見たカカシの夢は全て現実のことなのだろうか?そう考えてイルカは激しく動揺した。
何故なら顔を見つめるリアルな夢とは別に、もう一つカカシが出てくる夢を見ていたからだ。その夢はぼんやりとしていて朧げで、それこそ現実味に欠けていたので、特に気にしてもいなかった。しかし、その曖昧な夢が今は大変気になっていた。
両親の夢を見ていた。風邪を引いて弱っているような時、イルカはよく両親の夢を見るのだ。夢を見ながらイルカは泣いていた。額に手を乗せて優しく気遣ってくれる存在を恋しく思いながら、そんな手を今は持たない心細さも手伝って。
すると、何かが頬に触れた。それは指先のようだった。触れた指先は零れた涙の後を拭うように、優しくイルカの頬を撫で上げた。何度も何度も。自分を気遣う優しい手の感触にイルカはひどく安心していた。ずっと欲しいと思っていた、もうなくしてしまったはずの温もりがそこにあった。誰だろう、とイルカは思った。この優しい手は誰のものなんだろう。夢の中でイルカは薄目を開ける。その目に映るのは意外な人物だった。

カカシ先生....

カカシがイルカの頬を拭っていた。イルカを見つめるその瞳がなんだかとても真剣だった。とても有り得ない光景に、イルカはなんだ夢かと薄目を閉じた。でも、なかなか悪くない夢だな、と指先の感触にうっとりとしながら。

その夢が。
ひょっとしたら、現実かもしれないのだ。気にならないはずがない。

でも、そんな訳ないよな...それこそ有り得ない話だ...
俺はカカシ先生に嫌われてるんだし....

イルカは動揺しながらも自分にそう言い聞かせた。靴跡の謎を放置したまま。


顔を合わせたくない。

カカシはそう思っていた。イルカと顔を合わせたくない、と。何故あんなことをしてしまったのか。それだけならまだしも、この次イルカに会った時俺はまた考えられないようなことをしてしまうんじゃないか。カカシは自分で自分の行動に自信が持てなかった。

既に今もその兆候が現れている。

イルカに会いたくないと思うのに、カカシの足はまた音楽室へと真っ直ぐ向かっていた。今日も風邪でいなければいいと思いながら。
しかしそんなカカシの気持ちを余所に、音楽室へ続く長い廊下にはイルカのピアノの音が響き渡っていた。

もう元気になったのか。

落胆する気持ちとは裏腹に、自分の体の方は何故かその音に歩調を速める。何の心の準備も許されないまま、カカシは音楽室の戸をガラッと勢いよく開けていた。
その音にピアノから顔を上げたイルカが、はにかんだような笑みを浮かべてカカシに向かって軽く会釈をした。
その瞬間、カカシは自分の体がカーッと熱くなるのを感じた。心拍数が一気に上がり胸が苦しい。その上なんだかくらりと眩暈までがするではないか。

なんだか風邪が伝染ったみたいだな...
こんなに体が熱いなんて。
そう言えば、風邪引いてるこの人にキスしちゃったもんな...伝染って当然だよな...

風邪ってこんなに苦しいものなのか、とカカシは自分の無用心を呪いながら、思わずその場に膝をついた。なんだかとても立っていられなかった。


突然膝をついたカカシにイルカは大層吃驚した。

「だ、大丈夫ですか!?カカシ先生?」

思わずカカシに駆寄ると、カカシは汗を浮かべて赤い顔をしている。どうやら熱があるようだった。

昨日の俺の風邪が伝染ったんじゃ...やはり来てたのかな、カカシ先生....

イルカはまたそんなことを考えながらも、咄嗟に熱を計ろうとカカシの額に手を当てようとした。
すると突然カカシが物凄い勢いで、ズザザザザーーーーッと後退った。まるで海老のようだった。
瞬間二人の間に気まずい沈黙が落ちた。

な、なんだ?俺に触られるのが嫌だったのかな...

イルカが茫然としていると、カカシがぼそりと呟いた。

「ピアノ...弾かないの?」

イルカは何だか訳のわからないまま、カカシに促されるがままにピアノに向かっていた。

いつもよく分からない人だけど、最近ようやくそれにも慣れてきたなあと思っていたのに...

イルカはピアノを弾きながら思った。

今日はまた一段と変な感じだよなあ....

風邪は大丈夫なんだろうか、こんなところにいていいのかな、とイルカはちらりとカカシの方を見遣った。そしてイルカはドキリとした。カカシが眉根を寄せて苦しげな表情を浮かべてこちらを見ていた。カカシ先生相当具合が悪そうだなあ、とイルカはひどく心配になった。しかもその風邪は自分が伝染したのかもしれないのだ。カカシが自分のうちに来ていたのか、訊いてみたい衝動に駆られながらも、やはり訊くのも馬鹿らしいことのような気がして、イルカは躊躇ってしまう。そんな風に色々と考えてしまう所為か、イルカの今日のピアノはいつもにも増して酷いものだった。

いかんいかん、カカシ先生も具合が悪いのに、折角聞きに来てくれてるんだ。集中しなくちゃ。

イルカは暫しの間一心不乱にピアノを弾き続けた。そしてふと鍵盤から顔を上げて、カカシがいるはずの窓際の席に目をやる。いつもカカシは窓際の少し離れた席に座って聞いているのだ。そこが特等席と言わんばかりに。しかし、そこにあるべき姿が見つからず、イルカは吃驚して思わず手を止めた。

やはり具合が悪くて帰ってしまったんだろうか?

イルカがそう思った時、「どうしたの?...続けて」とすぐ近くでカカシの声がした。イルカが声のする方に顔を向けると、なんとカカシはイルカのすぐ側にいた。気が付かない自分もどうにかしていると思うのだが、何時の間にかカカシはピアノの上に肘を付いて、凭れかかるようにしてイルカを覗きこんでいた。その瞳は昨日夢の中で見た瞳そのままだった。何を考えているんだ、とイルカは赤くなった顔をブンブンと横に振った。

こんなに近くで見つめられると、な、なんだか弾き難いな...

イルカはカカシの視線を意識してしまって、変にぎくしゃくとしてしまう。そんな自分になんと自意識過剰なんだと呆れながらも、イルカはなるべくカカシの方を見ないようにしてピアノを弾いた。カカシを見ていると昨日のことが気になって仕方がなくなってしまう。夢の中のことだというのに。イルカは急に昨日の指の感触を思い出して、何だか妙に気恥ずかしくなってしまって、頑なに顔を上げられないままでいた。

あー、なんなんだ俺は。馬鹿か。

最早自然に顔を上げることも出来ず、イルカが俯いたままピアノを弾き続けていると、カカシが更に自分の方に近寄ってくる気配がした。


つづく

この次の展開を決めるアンケートに、よろしかったら是非参加してくださいね!(TOPからとびます)