「歌を歌おう」連載第7回


父ちゃん...母ちゃん...

哀しげに呟かれたその言葉と共に、閉じられた目蓋の縁から涙が一粒ぽろりと零れて落ちた。
それを見ていたカカシは思わず顔を顰めた。

また泣いてるよ、この人。
いい年をした大人が、父ちゃん、母ちゃんとか言っちゃって。

嫌だねぇ、とカカシは小さく呟きながら、この場所に来たことを心底後悔していた。
厭わしいと思っている相手の、しかも醜悪な泣き顔を拝むことになるとは。
10年前も泣いていた。誰にも見咎められない場所で、思いきり。
そして今も泣いている。現実だけでは飽き足らず、夢の世界でも涙を零している。
イルカはこの10年を涙と共に過ごしてきたのだろうか。
なんと弱くて情けない男なのだろう。
カカシの心は急速に込上げてきたイルカへの苛立ちと軽蔑で一杯になった。

やだやだ。ちょっと仏心を出したらこれだ〜よ。慣れない事はするもんじゃないねぇ。

カカシはちっぽけな良心の気まぐれに悪態をつきながら、もう帰ろうと心の中で固く誓った。
それなのにカカシの手はその意思に反して、イルカの家の窓をそろりと開けていた。
突然部屋の中に流れ込む冬の冷たい空気に、イルカが「ん...」と少し身を捩らせて、乱れた布団を自分の肩まで引き上げた。
カカシは息を詰めてその様子を見守っていたが、イルカが起きないのを見て取ると、そのままスルリとイルカの家の中に自分の体を滑りこませた。カカシは自分で自分が信じられなかった。何をやっているんだ、と心の中でカカシは悲鳴を上げていた。

何をやってるんだ、俺は?帰るんじゃなかったのか!?いや、帰らなくては。
こんなところをイルカに見つかったらどうするんだ?
何ていい訳をするつもりだ?
自分でもどうして家の中に入ってしまったのか、分からないというのに。

カカシは自分の行動に混乱を来していた。そんな心の内とは裏腹に、カカシの体は迷うことなく、それ自身が明確な意思を持って動いていた。
カカシの体はイルカの眠るベッドの側らに近寄ると、跪いてイルカの顔を覗きこむようにした。覗き込んだイルカの顔が汗と零れ落ちる別のもので濡れていた。

うわ、最悪...何で一番嫌いな泣き顔をわざわざ覗きこんでんの?

最早自分の意思とは関係なく動く体を、カカシはまるで他人事のように受け止めていた。カカシの疑問に答えるように、カカシの体はすぐにその回答を出した。カカシの手がゆっくりとイルカの方へと伸ばされ、その指先がイルカの濡れる頬を拭うように擦った。触れられたイルカではなく、触れたカカシの方が瞬間ビクリと体を震わせる。しかし、その指先は動きを止めることなく、何度も何度もイルカの頬を優しく拭った。零れ落ちた軌跡を消すように。
何でこんなことを、とカカシは戸惑いと苛立ちにおかしくなりそうだった。これではまるでイルカを慰めているようではないか。
しかし、指先がイルカの頬を辿る度に、その戸惑いと苛立ちはどんどん薄らいでいった。

そして今は。カカシにはピアノの音色が聞こえていた。
イルカが音楽室で奏でる、あのたどたどしくも調子っぱずれなピアノの音が。
最も優しくて輝いた時間を自分に許してくれる、あの音が。

もう失われてしまったのに。
もう決して戻っては来ないのに。

錯覚する。

今自分の目の前に、その時間があるように。
もう一度それが許されたかのように。
優しく輝いた、俺の。

頬を拭っていたカカシの指先がイルカの唇を優しくなぞった次の瞬間、カカシはその上に自分の唇を重ねていた。
しかし、軽く触れたその唇の柔らかな感触にカカシはハッと我に返った。冷静さを取り戻した理性がカカシの心を凍らせる。

い、今俺は何を....!?

慌てて口を離すのと、ほぼ同時のことだった。イルカが目を開いたのは。
イルカの寝惚け眼とカカシの大きく見開かれた瞳が極至近距離でかち合った。
カカシの頭の中はあまりの動揺に真っ白になった。いい訳の言葉すら思いつかず、体は硬直したまま、その不自然な態勢を解くことも出来ない。
すると、イルカがにこりと笑顔を浮かべた。
カカシは心臓が爆発しそうだった。

俺はどう返したらいいんだ?
そもそも俺はどうしてあんなことをしてしまったんだ!?

しかし、そんなカカシの心の葛藤もとんだ無駄骨だった。にこりと笑顔を浮かべた次の瞬間には、イルカはまた目を閉じてパタリと寝てしまったのだから。しかもスースーと寝息までたてて。

ね、寝惚けていたのか...!

カカシは激しく脱力してその場にへたりこんだ。だが、また何時イルカが目覚めるかもしれないと思うと、落ち落ちしていられなかった。カカシは入っていた時と同じように素早く窓の外へと身を滑らせると、脱兎の如くその場を後にした。



次の朝目覚めたイルカは、熱も下がり爽快な気分だった。

今日は仕事に行けそうだな。

イルカは色々と気掛かりであまり仕事を休みたくなかったので、早くの回復を喜んだ。
山積みになった仕事も心配だったが、カカシのことも気になっていた。

別に約束をしているわけでもないけれど。

「あの人、毎日来るからなあ...。」

昨日も来たのだろうか。きっと来ただろう。わざわざ足を運んでくれているのに、目当てのピアノが聞けなくて、さぞがっかりしたことだろう。
突然の病で知らせることも出来なかった。申し訳ないことをしたなあ、とイルカは思う。
その所為か、昨日カカシの出てくる夢まで見てしまった。
とてもリアルな夢だった。至近距離でカカシの顔をまじまじと見つめる夢だ。

変な夢だったよなあ。

そう思いながらもイルカは仕事に行く身支度をしようとベッドを降りた。降りる際に視線を落とした畳の上に、有り得ないものを見つけてイルカは目が点になった。
畳の上に、男性のものと思われる靴跡が残されていた。



つづく

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