「歌を歌おう」連載第6回
それからというもの、イルカが放課後ピアノを練習していると、カカシがヒョコリと顔を出すようになった。
だからといって何か言葉を交わす訳でもなく、カカシはただ黙ってイルカのピアノを聞いているだけだった。
挨拶くらいはしなくては、と最初のうちはイルカも「カカシ先生、こんにちは。」「どうも。」とかなんとか無難な言葉を投げかけていたが、何も返さないカカシにそれすらも必要ではないのだと悟った。何の気まぐれか知らないが、本当にピアノだけを聞きに来ているらしい。
こんなに下手なのに。聞いていて楽しいのかな。
イルカは本当に不思議だった。本当は早く切り上げて帰ってしまいたい日もあったが、カカシの子供のように強請る目に、結局いつも暗くなるまで引き続けてしまうのだった。実際に続きを催促されている訳でもないのに。
あの無防備な表情がいけない、とイルカは思う。カカシがピアノを聞いている時の、あのひどく優しく、無防備な表情が。それは一見とても幸せそうでいて、何処か痛々しかった。
カカシは何かを思い出しているのだ。自分のこのピアノの音色に。
多分とても大切で、でももう失ってしまった何かを。
漠然とではあるが、イルカはそう思っていた。
かつて両親と死に別れた時自分もそうだった。家に帰るといつも決まってアルバムを開いた。写真の中に閉じ込められた優しい時間に幸せを感じながらも、それが失われてしまった現実に悲しみを感じていた。アルバムを閉じた後はいつも暗い絶望に胸が塞がれていた。今ではそんなこともなくなったが、それでもアルバムを開くような時、幸せを感じながらも胸が痛む。
カカシ先生も同じなんじゃないかな。
イルカはそんなことを思いながら、口の端に軽い笑みを浮かべた。
カカシ先生に知られたら、また肋骨を折られそうだ。
そんな物騒なことを考えて。
また来てしまった。
ピアノを弾くイルカを見つめながらカカシは思った。
きっと明日も来てしまうだろう。その次も。明々後日も
そんな自分にカカシは思わず嘆息した。
あの日から。
イルカがピアノを弾いている場面に出くわしたあの日から。
どういう訳か、自分の足は何時の間にかここへ向かってしまうのだ。
イルカがピアノを弾いている、この場所へ。
何故なのか、自分でもよく分からなかった。イルカのことを厭わしく思っている気持ちには変わりがないのに、イルカの奏でる旋律がひどく自分の心を惹きつけるのだ。その音色の前ではイルカへの苛立ちも厭わしさも皆影を潜めてしまう。
こんなに下手糞なのに。
自分の耳の調律が狂っているとしか思えない。カカシはそう考えて苦笑をした。
イルカが練習している曲は一曲だけではなかった。カカシにとって、どれも知らない曲ばかりだった。一曲を除いては。
それなのにどの曲を聞いていても、カカシの心は何時の間にかあの時間へと飛んでいた。
最も優しく、輝いた時間へ。
イルカのたどたどしくも一生懸命な調べは、どこか黒い髪の少年の、ぶっきらぼうな優しさを思わせた。
調子っぱずれに響く明るい音色は、どこか金の髪のあの人に似ていた。
音痴だったよなぁ、先生は。
そんな事を思い出して、カカシは屈託ない笑みを浮かべた。こんな風に思い出すことなんてなかった。いつも思い出すのは二人の最後だった。カカシにとって、想い出はいつも絶望と後悔に満ちていた。それは過去の愚かな自分への戒めでもあった。それなのに。
この音色を聞いていると、錯覚してしまう。
優しく輝いた時間が、今も目の前にあるかのように。
馬鹿なことを、と自分でも思うのに、ピアノの音色は抗いがたい力でカカシの心を捕らえていた。
その日もいつも通り、カカシは音楽室を訪れていた。
だが、音楽室に足を踏み入れる前から、カカシはその異変に気がついていた。
ピアノの音が聞こえない。
音楽室の戸を開けると、やはりそこにイルカの姿はなかった。そんなことは今までなかった。カカシはがらんとした音楽室を眺めながら、暫し茫然と立ち尽くしていた。今日は何か用事があったんだろうかと思いながらも、何処か納得できなくてカカシはモヤモヤとした。
別に約束をしているわけでもない。
カカシが勝手に来ているだけなのだ。
それなのにカカシはイルカに対して理不尽にも憤りのようなものを感じていた。
それとも、残業でもしているのか。
カカシは思いつくとすぐ、教員室へと足を向けた。
教員室にイルカの姿はなかったが、その代わり居残っていた職員から意外な事実を教えてもらえた。イルカは今日風邪でアカデミーを欠勤しているということだった。働き過ぎですよ、とその職員は言った。教員の仕事だけでも12月は手一杯なのに、受付所の人手が足りないと駆り出され、その上発表会の伴奏まで押しつけられて。毎日ピアノの練習をして、その後残業もしているんですよ。体壊さない方がおかしいくらいです。
カカシはその事実に驚いた。あの後、イルカがまだアカデミーに残って仕事を続けているとは知らなかった。
それならば、もっと早くピアノの練習を切り上げればいいのに、とカカシはイルカの要領の悪さに呆れた。
カカシの自分に対する不可解さは増していた。
今カカシはイルカの家の窓の外から、中の様子を怪しくもコッソリと伺っていた。
先程の職員に自分からイルカの住いの在処を聞いてきたのだ。
無事なのを確認するだけだと自分に言い聞かせながらも、こそ泥風の自分をカカシは少し情けなく思った。
一体俺は何をしているのかと思う。
しかし、仕方がない。面と向かって見舞いにいく気にはなれなかった。
自分がイルカを気に掛けているのだと、勘違いされて懐かれても困る。
できれば、今日ここにいることを知られたくなかった。
それでもここまで来てしまったのは。
カカシは少しだけ責任を感じていたのだ。イルカの風邪の原因の一端を担っているのは、多分自分だろう。それだけならまだしも、それ以前に折ってしまった肋骨の件もある。それに対し自分は何の詫びもいれていないのだ。詫びをいれるつもりもないのだが、何処か後ろめたい気持ちがするのも確かだ。イルカが自分に対して何も言わないからすっかり忘れていた。思えばイルカは何とお人好しなのだろうか。肋骨を折った俺を詰るでもなく、ピアノを弾いて聞かせて。
まあ、その馬鹿なところが俺を苛立たせるんだけどね〜。
窓から覗くカカシの目に、ベッドに横たわるイルカの姿が映った。熱が高いのか顔が赤い。よく眠っているようだったが、具合が悪くて寝苦しいのか、ウンウンと唸っている。その眉根の寄せられた顔に玉の汗が浮かんでいた。
カカシは滅多に体調を崩すことはない。カカシの周りも然りだ。自分の健康を維持できないようでは、上忍は務まるまい。
故に風邪というものがどれくらい辛いものなのか、今一つ理解できなかった。だからイルカの様子がカカシには大層悪いように見えた。
大丈夫なのか、とカカシが身を乗り出した時、イルカがぼそりと寝言を言った。
つづく
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