(5)

黄昏時の太陽に茜色に染まった空を、黒い翼を広げた烏がカアカアと鳴いては家路を急いで飛んでいく。
逃げ足の速い冬の太陽が、もう仕事は終ったとばかりに、地平線の下に半分顔を潜りこませていた。

カカシは子供達に関する必要書類を取りにアカデミーに来ていた。その目的も終えてカカシが長い廊下を歩いていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。奏でられるピアノの音はたどたどしく、時には途切れるようにして、ひどくその旋律を乱していた。
カカシは苦笑しながらも、その曲が一体何という曲なのか気になった。というのも、カカシはその曲を遠い昔に一度だけ、聞いた事があったのだ。その曲を口ずさむ、今は亡き彼の人の姿が浮かんだ。

クリスマスに歌う歌だよ、と金の髪をした人が言った。
クリスマスには子供はプレゼントを強請ってもいいんだよ、カカシは何が欲しい?

そんなものは知らなかった。6歳の頃からずっと戦場にいた俺は。

何だよ?お前、クリスマスも知らねえのか?と黒い髪をした少年が驚いたように言った。
じゃあ、今年はカカシの為に皆でクリスマスを祝おうぜ。ぱーっと、盛大にな!

しかし、その約束が果たされることはなかった。
クリスマスが来る前に、黒い髪の少年も、金の髪をしたあの人も逝ってしまったのだから。
情緒に欠陥があるとして、その矯正の為に下忍のスリーマンセルに入れられていた、たった1年の間の話だ。しかし、その僅かな時間だけが自分の生きてきた時間の中で最も優しく輝いた時間だった。

カカシは何時の間にか、その音色が聞こえる方へと足を進めていた。ピアノの音は音楽室から聞こえていた。カカシが何気に廊下側の窓から音楽室の中を覗きこむと、そこにはピアノを弾くイルカの姿があった。これには流石のカカシも吃驚してしまった。

またこいつか。何だっていつも俺の行く先々にいるんだ。

カカシが辟易していると、ピアノを弾くイルカがウッと呻き声を上げて胸部を押さえるようにして演奏を中断した。しかし、またすぐにイルカは顔を上げて、歯を食いしばるようにして鍵盤に指を滑らせる。ピアノの旋律が乱れがちだったのは、どうやら下手ばかりじゃないようだった。

やっぱり肋骨が折れちゃってたか。

カカシは昨日の朝の出来事を思い出して、思わず顔を曇らせた。どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でもよく分からなかった。イルカの言葉をどうして自分は聞き流すことが出来なかったのだろう。イルカが自分を激昂させるようなことを言ったからといって、怪我をさせてもいいという理由にはならなかった。こんなことは今までなかった。自分で自分のことが分からないなんてことは。

その間もイルカは苦痛に顔を歪ませながらも、一生懸命ピアノを弾いていた。

カカシはその音色に誘われるように、音楽室に足を踏み入れていた。


イルカはクリスマスの発表会に向けて、ピアノの練習をしていた。その当日、イルカは聖歌の伴奏をするのだ。
クリスマス会を兼ねて行われるその発表会は、盛大なアカデミーの行事のうちの一つだった。
イルカはピアノが下手なので、この身に余る抜擢に憂鬱な毎日だった。誰か他に適任者はいそうなものだが、正直年末の忙しいこの時期は、なかなか引き受けてくれる者がいなかったのだ。独身でお人よしのイルカが割を食った形だ。しかもクリスマスの曲というやつは、なかなかに難しいものが多く、イルカは居残ってピアノの練習することを余儀なくされていた。
イルカの指が鍵盤を叩く度に、昨日折られた肋骨が軋んで痛んだ。その痛みに指先の動きが狂い、ただでさえ下手な演奏をより悲惨なものにしていた。

いいんだ。下手だから練習するんだ。

我ながら聞くに耐えないなあとうんざりしながらも、向上を信じてイルカは頑張っていた。
演奏しながらも、痛む肋骨が昨日のカカシとの出来事を否応にも思い出させる。
最初のうちは何がそんなにカカシの気に障ったのか分からなかくて、ただイルカは怯えてしまった。だけどきっと、とイルカはぼんやりとではあるが分かったような気がした。カカシはあの悲しみに覆われた顔を見られたくなかったのだ。きっと。自分はカカシの傷に触れてしまったのだ。知らぬこととはいえ。
そう思うと申し訳なさの方が先に立って、不思議とカカシを恨む気持ちにはなれなかった。

怪我をさせられたっていうのになあ。

イルカは肋骨を押さえながら苦笑した。

あの泣きそうな顔を見たせいかな。

そんなことを考えながらピアノを弾いていると、突然音楽室の戸がガラッと開けられる音がした。
思わず振り返ったイルカの目に飛びこんできたのは、まさに今自分が思いを馳せていた人物だった。

カ、カカシ先生...!

あまりの驚きと戸惑いに、イルカは目を大きく見開いたまま固まってしまった。

な、なんでこんなところにカカシ先生が...!?

思わずピアノを弾く手が止まった。するとカカシは言った。

「続けて」

イルカは激しく狼狽しながらも、言われるがままにピアノを弾く手を再開させた。他にどうしたらいいのか分からなかった。
イルカがピアノを弾く様子を、カカシは黙ったまま見つめていた。お世辞にも上手いとは言えないイルカのピアノを、カカシは熱心に聞き入っていた。その光景は不思議を通り越して奇妙ですらあった。

よく分からない人だよな...

カカシは自分のことを疎ましいと思っているに違いなかった。肋骨を折るほど嫌われているのだ。それなのに、ピアノを続けろとイルカに強請る。イルカのピアノを聞いている。
しかもピアノの音に聞き入るカカシの顔は、いつもイルカに向けられる厭わしげな顔ではなかった。
ひどく優しく、そしてどこか痛みを覚えるほど無防備な顔をしていた。

一体なんだっていうんだ...?

日が沈みきって辺りがすっかり暗くなってしまうまで、イルカはピアノを弾き続けた。
暗くなる手元が鍵盤を確認できなくなって、もうこれ以上は無理だとイルカがピアノを弾く手を止めた時、カカシの姿は音楽室から消えていた。


つづく

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