「歌を歌おう」連載第十回


カカシは緑深い森の梢の上を音もなく駆け抜けていた。追ってくる敵の気配は格段に減って来てはいるものの、その気配はまだ両手では数え切れないくらいだ。カカシは既に10人以上殺している筈だった。その大袈裟な追っ手の数にカカシは知らず苦笑を浮かべる。
カカシは極秘の暗殺任務に就いていた。ターゲットは国家元首レベルの重要人物だ。お忍びで愛人の元を訪れていた手薄なところを狙った。簡単な任務だった。だが手引きをした愛人が最後の最後で寝返った。しくじった、とカカシは思う。ターゲット諸共すぐに殺しておくんだった。要人を殺したとあって、その追っ手はかなり厳しいものだった。
だが捕まるわけにはいかない。この件に木の葉が加担していることを知られてはいけない。勿論依頼主についても。戦乱の火種になるわけにはいかなかった。

写輪眼のカカシとあろうものが、情けないねぇ。

カカシは自分自身に向かって揶揄するように呟いた。
寒とした冬の夜空に綺麗な月が浮かんでいた。地上では血塗の戦いが繰り広げられているというのに、月はその表情を何ら変える事もなく、清浄に輝いていた。
見上げたことのない夜空に浮かぶその月の美しさに、カカシは戦いながらもうっとりとした。月を眺めたのなんて何年ぶりだろうか。

この月をイルカも見ているだろうか。

カカシは緊迫した戦いの中、ふとそんなことを考えていた。アカデミーからの帰り道、イルカはこの月の浮かんだ夜空を見上げながら帰ったのだろうか。きっとそうだろう。イルカはいつも上を向いて歩いている。

今日は急な任務で行くことが出来なかったな。

何も告げることなく任務についてしまったので、イルカは音楽室に現れない自分を訝しんでいることだろう。自分もかつて風邪で来なかったイルカに憤りを感じていた。

行きたかったんだけどねぇ。任務だから仕方ないよね〜。

カカシは音楽室にいけなかったことを残念に思っていた。練習はあと5回しかない、とイルカは言っていた。その貴重な1回を潰してしまった。任務で仕方が無い事とはいえ。カカシは自分が優しい時間を奏でられたことに興奮していた。ひょっとしたらこうしているうちに、いつか自分一人の力でも優しい時間を奏でられるようになるのではないか。そんな妄想に執着していた。相変わらずイルカの事は気に入らないのだが、以前ほどでは無くなっていた。今自分はイルカの生徒のようなものなのだ。

明日の練習までには戻れるといいけど。

明日は練習後イルカと食事をする約束をしていた。一度は断りかけた誘いだったが、あんなに毎日通っておいて「ピアノを聞きに来ていた訳じゃない」とか言ってしまった。言ってしまってから慌てた。ピアノが目当てじゃなかったら、まるでイルカに会うのが目当てで来ていたみたいじゃないか。それを否定したくて「ご馳走になります」と了承してしまったが、我ながら自分の行動が支離滅裂で怪し過ぎる。イルカは何だか嬉しそうな顔をしていたが、自分はどうでもいいことだ。第一イルカと食事をして楽しいのだろうか。そう思うのに、なんだかそわそわするのだ。はやく帰りたくて焦りのようなものまで感じる。

それには早く片付けなくちゃね。

駆け抜けながらも、カカシは距離を詰めさせないようにクナイを投げた。牽制出来れば上々、うっかり敵が絶命してくれたら儲けもの。カカシはそんなふざけた事を考えていたが、状況はそんなには甘くなかった。クナイを投げるカカシの手に情けはないのに、敵の数は減らない。流石にここまで生き残ってカカシを追いかけてきた敵は、簡単にやられてくれそうにも無かった。
カカシは徐に左目を覆う戒めに手をかけた。

ここからは命懸けで行く。

夜の闇に赤々と異形の瞳が燃えていた。
自分を追いかける敵が殺気を滾らせたのを感じた。


今日も来ないのかなあ、カカシ先生...

イルカは放課後の音楽室で、一人ポツンとピアノを弾いていた。
夕暮れに赤々と燃える空が徐々にその明るさを落とし、次第に闇の色に染まっていく。
イルカはちっとも練習に身の入らぬ自分に嘆息した。何の為の練習だ、と呆れた様に呟く。
いつもなら既にあるはずのカカシの姿が今はまだない、たったそれだけの理由で。
一人での練習がこんなに味気ないものだったとは、とイルカはカカシの存在の大きさに今更気付いて驚くばかりだ。
昨日もカカシは音楽室を訪れなかった。そんなことは初めてだった。約束をしているわけでもないのに、カカシは当然来るものと思っていた。

もう来るのが嫌になったのかなあ...

イルカはそう考えて落胆に肩を落とした。カカシがここにやって来る理由は今一つハッキリしないのに、カカシがここにやって来ない理由は幾つでも思いついてしまう。例えば、何時まで経っても上達しない自分の下手糞なピアノに、とうとう嫌気がさしたんだろうか、とか、厭わしい相手に食事に誘われて本当は辟易しているのではないか、とか、キリが無いくらいだ。昨日はそんなに気にしてもいなかったが、二日続けて姿を現さないとなると、なんとなく考えも後向きになってしまうものだ。

やはり俺は嫌われてるんだろうか。

イルカは盛大に溜息をついた。何故だろう。初めて会った時からカカシに辛辣な態度で当られてばかりなのに、思い出すのはあの慰霊碑の前の泣きそうな顔と、この前自分に向けられた少年のような笑顔ばかりだ。邪険にされながらも自分はカカシを嫌いにはなれなかった。それどころかイルカは親しくなりたいと思っていた。何となくカカシからは何時も悲しい雰囲気が感じられる。その悲しみがイルカはとても気になるのだ。カカシのことをもっと理解したいと思っていた。だからカカシが食事の誘いを了承してくれた時、本当に嬉しかった。親しくなれるような気がしていた。
それなのにその誘いの後、カカシは姿を見せなくなった。
昨日遅くまでイルカは音楽室に残っていた。もう少しでカカシが現れるのではないかと思いながら。夜の帳が音楽室をすっかり闇に包んでしまうまで。
そして今日は食事の約束の日だった。昨日同様カカシはまだやって来ていなかったが、イルカは今日は来るだろうと自分を励ました。

だって約束したもんな。カカシ先生は約束を破る人じゃない...と思う...

なんの根拠も無かったが、イルカは漠然と信じていた。そうだ、きっと来る。上の空でピアノを弾いていた自分を窘めながら、イルカは声に出して気合を入れる。

「よーし、ピアノ頑張るぞ!もう日が無いもんな!」

イルカは一生懸命ピアノを弾き出した。


しかしすっかり日が落ちてしまっても、カカシは姿を現さなかった。
イルカは僅かな月明かりがさしこむだけの真っ暗な音楽室のピアノの前に座ったままだった。

もう少し。

あとちょっとだけ。

そうやって自分を騙しながらカカシを待ち続けていたが、時計の針が9時を廻ったのを見てイルカの心は諦めの色で暗くなった。

食事には遅い時間になっちゃったなあ...

そう思うのにイルカはその場を動けないでいた。もう少しだけ待ってみようと思っていた。そんなことをしても無駄だ、と心の奥で叫ぶ声が聞こえるのに、諦めが悪いなあとイルカは自分に苦笑する。まだカカシが来てくれるような気がしていた。

阿呆だなあ...俺...

イルカがそんな事を思っていると、突然ガタリと大きな音を立てて音楽室の戸が開いた。
ハッとしてイルカが戸口に目を向けると、月明かりに照らされた銀髪がほのかに輝くのが目に映った。

「カカシ先生...!」

イルカが呟いた言葉は、しかし喜びではなく緊張に満ちていた。
開いた戸口から濃厚な血の匂いが流れこんでいた。怪我をしているのではないかという危惧がチラリと頭を掠める。
だが、そんな状態でここへ来るだろうか?

「イルカ先生....遅くなって...ごめん、ね?」

ハアハアと荒い息を吐きながら、カカシがその場にガクリと膝をついたのが分かった。

「カカシ先生!?だ、大丈夫ですか...!?」

イルカはカカシの常ならぬ様子に驚いて慌てて駆寄った。そしてギクリと体を強張らせた。案じていた通り、カカシは腹部に重傷を負っていた。その大きく開いた傷から止めど無く鮮血が零れ落ち、音楽室の床にはやくも血溜まりを作っていた。

こんな怪我をしてまで...!

イルカは思わず怒鳴っていた。「何考えてんだ!?あんたは馬鹿か!」

しかしイルカの怒声はカカシの耳には届かなかった。イルカが全てを言い終らぬうちに、大きく傾いだカカシの体が前のめりに倒れ込んでいた。


つづく

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