(8)最終回

らしくない事をしている。
カカシは水で濡らした手拭を絞りイルカの額に宛がうと、小さく舌打ちをした。
自分らしくない事をしている。イルカの容態を気遣うような、そんな事を。

…こんな奴、放って置けばいいんだ。暗部が体調を壊すなんて、忍の精鋭部隊として自覚が足りないし…
嫌味のひとつでも言って、叩き出してやれ…!

そう思う心とは裏腹に、カカシは家中の引き出しを開け氷嚢を捜していた。ガタガタと乱暴に引き出しを開ける手が何処となく震えている。全く忌々しいと、カカシはもう一度舌打ちをした。何も高熱程度で一々震えるような軟な神経をしていない。ただ、イルカのこの尋常ではない衰弱振りに不吉な予感が胸を掠め、カカシの心の平静を微かに波立たせていた。
仮にも暗部であるイルカが倒れるほどの不測の事態。思い当たらない事が無いでもない。
それは。

この前の任務だ…

カカシは漸く見つけた氷嚢に氷を詰めるべく、冷蔵庫から氷を取り出し適当な大きさに砕いた。小さく砕いた方がより早く熱を下げる事ができる。その時アイスピックで氷を無心に砕くカカシの手が滑り、氷を押さえていた左手の指先に突き刺さった。
「つぅ…っ、」
咄嗟に力を抜いたので、大事にはならなかったが、指先から滴り落ちる鮮血が氷を赤く染めた。

あの赤子から引き抜いた刃も…血を滴らせていた…

カカシは滲む血にぼんやりと骸と成り果てた赤子の姿を思い出していた。疫病の蔓延を防ぐ為に皆殺しにされた村民。飛沫感染するその疫病に侵された血を、あの時イルカは被ったのではないか。轟々と燃え盛る紅蓮の炎に掻き消されて、よく分からなかったけれど。赤子を手にかけた時、下手な感傷に惑わされてイルカの注意が少しだけ散漫だった気もする。発症までの潜伏期間には個人差があるが、発症してからは早い。あっという間に死を迎える。

…発症してからの生存期間はどれくらいだったっけ…?

血の滲む指先がズキズキと痛んだ。

…だから放っておけと言ったのに…わざわざ炎の中に飛び込んで…危険を冒したツケがこれだ…!

カカシは氷嚢の口を縛ると寝床へと急いだ。熱は危険なほど高く、カカシは氷嚢をイルカの腋へと挟んだ。そのほうが手早に体温を下げるには有効だ。もう一袋捜さねばと腰を上げるカカシの傍らで、「う…」とイルカが呻き声を上げた。見ると、僅かに目蓋を開けている。朦朧としたその顔を覗き込み、「何時から?」とカカシは低く尋ねた。
「熱が出たのは何時から…?」
イルカが何度か目を瞬かせる。分かっているのかいないのか。
暫し開いた空白にカカシがもう一度口を開きかけた時、
「…分かんない、さっき急に気分が悪くなって…」
イルカが小さく答えた。黙り込むカカシに、「迷惑かけてごめんな…」と随分としおらしい。
確かに甚だ迷惑をかけられている。特に今回は酷い。拭ったイルカの汗から自分が感染しないとも言い切れない。それほどの感染力のある疫病だ。それなのに、
「今更でしょ…?」
許すような発言をしている自分にカカシは驚いた。
イルカはその言葉に小さく笑って言った。
「迷惑ついでに…火影様に報告してくれないかな、カカシ…多分俺は…」
「病人は黙って寝てれば?」
カカシは思わずイルカの言葉の先を制していた。今度こそ本当に腰を上げようとするカカシに、
「…苦しいんだ…」
イルカが心底辛そうな声で小さく呻いた。
ゆっくりと振り向いたカカシを、イルカの瞳が縋るように見詰める。
「すごく、苦しい…」
「……」
それだけでハアハアと息を乱すイルカに、カカシがなんと答えていいのか黙っていると、イルカが静かに言った。
「カカシ、俺を殺して…」

何を馬鹿な事を言って。

あまりの驚きに絶句して、カカシはただまじまじとイルカを見詰めた。そこに真摯な瞳の色を見つけて狼狽する。イルカは本気だとカカシにも分かった。
「冗…談、何で俺が…」
喉が渇き舌先が縺れる。無様に掠れた自分の声音が何処か遠くに聞こえていた。

動揺している…この俺が…?

茫然と突っ立ったままのカカシに、イルカはにこりと笑って見せた。
「処理班が来るのが先か病気の進行が先か…でもどうせ死ぬなら、カカシ…カカシの手で楽にして…」
「ま、まだ決まったわけじゃないだろ…?」
「自分で分かるよ、」
逃げ口実を口にするカカシに、イルカは緩く首を横に振った。自分の懐からごそごそとクナイと取り出し、柄のほうをカカシに向け差し出す。
「…苦しまないようにしてくれよ、それから血が噴出さないようにな?この布団はもう使えないから弁償だな…火影様に言って、俺の報酬から引いといて…あ、後もう一つ…俺が触ったところには触れるなよ、勿論俺にも…」
イルカは臨終の際の言葉にしては味気ない、事務的な言葉を淡々と口にした。
だけど暫しの沈黙の後そっと目を伏せながら、
「ごめんな、カカシ…友達になるって言ったのに…俺が死んだら、誰がお前の面倒を見るのかなあ…」
心配だなあ…とイルカは心底心配そうに呟いた。

心配って誰が誰を…?別にお前に面倒なんか見てもらって無いし。友達だなんて思って無いし…

カカシは腹立たしく思いながらも、差し出されたクナイを手に取る事ができなかった。
イルカの言う通り、すぐさまイルカを殺したほうがいい。それが面倒だと感じるなら、火影に連絡をして処理班を呼べばいいだけの話だ。
今までもこんな場面はあった。負傷した仲間を戦場に置いていかねばならない時、無情に刃を振るった。連れて行けないなら、処理するしかない。仲間を楽にするというよりも、その口を封じる為に。何も疑問を持たずにそれを行ってきた。
今もそうするべきだとカカシは分かっていた。
疫病の蔓延を防ぐ為には、ここでイルカを殺しておくべきだ。発症して数日で内臓から体を壊死させていく難病は、恐ろしいほどの苦痛を患者に齎す。今この場で殺して貰った方が本人も楽な筈だ。イルカもそれを求めている。だから躊躇う事なんて無い。

躊躇う事なんて無いんだ…

「カカシ、早く…」
クナイを差し出すイルカの手が大きく震える。何時までもそうしているのも大変なのだろう。
カカシがのろのろとそれを受け取ると、イルカがほっと安堵の息を吐いた。カカシはまた舌打ちして強くクナイを握った。それを大きく振り上げる。

何てこと無い、こんな事。

クナイを振り下ろそうとした瞬間、ピックで傷ついた指先がズキリと痛んだ。
それはとても耐え難いほどの痛みで。
カカシの手元は大きく狂った。
ザンとイルカの耳元近くの布団を切り裂いて、深々と突き刺さる。
「…カカシ?」
不思議そうに目をパチパチさせるイルカが憎らしい。何時だって憎らしかった。

いつもいつもお前のペースに引き摺られてばかりだ…だけど最後くらいは俺もお前を吃驚させてやるからな…!

カカシはぐいとイルカの胸倉を掴んで引っ張り起こすと、いきなりその唇に口付けた。
流石のイルカも物凄く吃驚した顔をして、目を大きく見開いている。カカシのその振る舞いを予想だにしていなかったようだ。目を白黒させるイルカにカカシは溜飲が下がる思いだった。

ざまあみろ…!誰が思い通りになんかしてやるもんか…!

直接的な粘膜接触は確実に感染する。今はカカシ自身も誰かに処理されるのを待つ身となったのだ。これで自分がイルカを殺さねばならない理由はなくなった。

殺してなんか、やるもんか…一人だけ逝かせるなんて、そんな事。…俺にできるわけないでしょ。

イルカが自分の前に現れてからサイアクだった。始終苛々してムカついて自分のペースが乱されっぱなしで。
でも、退屈じゃなかった。人を殺す時の愉悦以外の感情が削げ落ちていた自分には、そんな感情の起伏も珍しく、なんとなく人間染みたものを感じた。それは今までの人間以下の生活に比べたら随分と上等だった。

俺を人間の世界に引き摺り込んでおいて、自分だけ先に逝くなんて許さないよ…?

カカシはゆっくりと唇を離すと、早速自由になった口から恨み言を漏らした。
「お前って、ほんとサイアク…」

今日のは一番サイアク、

「…れに…殺せ、なんて…最低最悪、ほんっとに俺を苛立たせるのが上手いよ…」
イルカを睨みつけながら吐き捨てるように言うと、イルカが深く溜息をついた。
「…カカシってほんっとに素直じゃないのな…まあ、俺には分かるからいいけど…もうちょっと言い方を覚えたほうがいいぞ。」
「…俺は今、これ以上もなく素直だ〜よ。」
カカシの正直な気持ちだった。イルカはやれやれと鼻先を掻きながら、
「まー、命の大切さとかそういうの、すごくよく分かっただろ?俺を殺せなくて一緒に死のうとしたところは計算違いだったけど…カカシって思ってたより情に厚い奴なんだな…だけどもしまたこんな状況に陥った時は、絶対に一太刀で俺を楽にしてくれよ。こういうのは勘弁な、」
不思議な事をぺらぺらと捲くし立てた。
「…は?」

もしまたこんな状況に陥った時って…そんなの死を目前にありえないんじゃないだろうか。

カカシが怪訝な顔をする前で、イルカが懐から何やら茶色い瓶を取り出した。きゅぽんと蓋を外して、ごくごくと半分まで飲むと、その瓶をカカシに向かって差し出した。
「カカシも念の為に飲んでおいたほうがいいぞ?別に俺はこの前の疫病に掛かってる訳じゃないんだけど…悪性ウィルスにやられてるのは

確かだから…うつるかもしれないしな!」
「え?」
にっこりと屈託の無い笑顔を浮かべるイルカに、硬直したカカシが全てを悟るのは三分後だった。
「だだだだだ、騙したなああああああーーーーーーーー!!!!!?????」
大絶叫を上げるカカシにイルカは少しだけ神妙な顔をして、ごめんね、と信用なら無い謝罪を口にした。
「だけどカカシに命の重みを感じて欲しかったんだよ、」
イルカが自分に必死に教えようとしていた事が、今ならば少し分かる。

自分にとって重みのある命なんて、今のところ一つしか無いけれど。

騙された事は腹立たしいが、カカシはほっとしていた。今までイルカといると、本当に苛々してムカついて腸の煮えくり返る思いをしてばかりで、それでも自分の人生を振り返ればマシな日々だったから、それで終るのもいいかと思っていた。だけど。

生きていたら、もっとマシなもんも手に入れられるかもしれないし…

自分も一回くらいはイルカのように微笑んで見るのもいいかもしれない。
カカシは頭を下げるイルカに向かって、
「もう顔を上げたら?鬱陶しいんだよね、」
そう言いながら、早速にっこりと笑って見せた。イルカがまた目をまん丸にする。してやったりと微笑みながら、
「でも…もしまたこんな状況になったら俺は同じ事をするよ。楽になんてしてやんない、」
それだけは覚えといて?
カカシが念を押すと、
「カカシって…本当に性質が悪いね…」
イルカが呆れたように言いながら、苦笑を浮かべた。




「カカシよ、最近随分と落ち着いたようじゃの…それも年相応の友達ができたたお陰か…やはり友情パワーは侮れんのう…!」
フォッフォッフォと勝ちを気取ってわざとらしく笑い声を上げる火影に、
「ほ〜んと、火影の爺様のお陰ですよ!イルカに会わせてくれてありがとね?」
カカシはにっこりと屈託の無い微笑を浮かべて見せた。微妙に失礼な物言いには眉を吊り上げる事無く、「そうかそうか」と火影が呑気に頷く。続くカカシの言葉に奈落の底に突き落とされる事も知らずに。
「爺ィ、俺、あれ気に入っちゃった!俺が貰ってもいいんでしょ?っていうか、もう俺のだし、」
さらりと告げられたカカシの言葉に火影が目を剥く。
「カ、カカシ、今なんと…?」
「ほんっとにありがとね!流石里長、太っ腹!大事にするから…」
乗り上げていた机からひらりと飛び降りて、ばあんと火影の背中を叩く。不安に見上げる火影のその顔を、カカシは厚い信頼を込めた瞳で受け止めると、ねっ?と有無を言わせぬ子供らしい微笑で止めを刺した。瞬間言いかけた言葉を火影がぐっと呑み込む音が聞こえた。

勝った…!

カカシは心の中で拳を握りながら、意気揚々と火影の部屋を後にした。
ちょっと意地悪な物言いだったが、火影に感謝している事は確かだ。今のところ、退屈とは無縁の忙しい日々を送っている。暇な時もイルカが心にいて、あれこれと考えるから退屈しない。

週末はイルカと釣りだから、任務を期日通りに終えないとな…

獣面の下でカカシの顔が微笑みを作る。
最近は魚を一太刀で上手にさばけるようになった。それが、当たり前になった。
「ほんと、上手くなったよなあカカシ、」
ニコニコと満足げに笑うイルカに、時々胸が疼くような痛みを訴える。

ほんとサイアク…苛々とかムカムカの次は胸の痛みかよ…?

心の中で罵りながらも、でも案外悪くは無いかなと、カカシは口元をほころばせた。


終わり