(5)

何だって…?

虚を衝かれて茫然とするカカシにイルカは一気に詰め寄ってきた。
急激に狭まる距離に、イルカの煌く瞳が夜目にもはっきりと見える。
自ら武器を捨てながらも、その瞳は獲物を狙う猛禽類の凶暴さを宿していた。

この人は『殺せ』と言いながら、全く諦めていない…
それに引き換え俺はどうだ…?圧倒的有利な立場にいるのに武器を持つ手が震えている…

一体どちらが狩られているのか。武器を振るわねばならない。分かっているのに腕が動かない。

俺は一体どうしたいんだ…?

クナイを構えたまま、カカシは近付くイルカに退く事もできなかった。
「殺してくださいって、言ったでしょう?」
イルカは笑みさえ浮かべながら、大きく一歩前に進んで自分の左胸をクナイの先にぐっと押し付ける。
砥がれた鋭利な刃先が布地を裂き、易く柔肌へと到達する。弾力のある筋肉が潜り込む刃先を拒むように一瞬押し返した。
「あんた…っ、一体何考えて…、」
反射的に半歩後退さるカカシを許さず、視線を絡ませたままイルカは大きく踏み出して開いた距離を詰める。
イルカの胸に深く切っ先が沈む。クナイを伝う鮮血が筋を描くようにしてカカシの手を濡らした。

なんて熱い。

緊張に渇いた喉は飲み込んだ唾にゴクリと音を立てた。反対に汗でしとどに濡れた額は拭う事さえままならない。
自分を射抜く獰猛な瞳の、しかし何と澄んでいる事か。

なんて、迷いの無い…

ドクリと。胸にめり込んでいく切っ先がイルカの脈動を伝える。それはカカシの胸をも大きく震わせた。クナイを握る手に力が入らない。

俺は…俺には……

「あんたを殺す事はでき…」
「できないと言うなら、カカシ先生、あんた里を捨てて俺につきなさいよ」
しゃあしゃあと言い放たれて。
瞬間カカシは何を言われたのか理解できなかった。

何を馬鹿な。

笑止と切り捨てる間も無く、イルカが逃がさないとばかりにクナイを持つカカシの手を掴んだ。
「あんたはいつもそうやって迷っている。そして無駄な傷を拵えて悪戯に命を危険に晒している…俺に言わせれば馬鹿馬鹿しい。人殺しに正義やら何やら、罪の意識を埋め合わせる綺麗ごとを求めるのはお門違いですよ。そんなものはありはしない。でも、」
ぐっと刃先を握り込むイルカの手からぽたぽたと鮮血が滴り落ちる。
「信じるものがあれば、迷いは消える。」

だからあんたは俺を信じてりゃいいんです。

しんとした夜の闇にイルカの明瞭な声が響く。
クナイを握るカカシの手が緩み、遂には柄から力なく滑り落ちる。
胸が、震えていた。信じてついて来いと血塗られた道へとイルカが平気で誘う。それは一見傲岸でありながらその実酷く優しい。

俺の罪を…この人が背負って行こうと言うのか。

信じられないと思った。
だけど、信じたいと思った。
あの強い意志の宿る瞳を見た時から、ずっと欲しかったのだと気づいた。
迷いすらも罪悪すらも拭い去るほどの強烈な思い。やっと手に入れた。
「イルカ先生、あんたなんて言い草ですか…」
呆れたように呟くと、
「あんたが俺に答えを求めるからですよ。あんた俺を買い被り過ぎだって忠告したでしょうが。」
不敵な笑みを浮かべながら、で、どうしますか?とイルカが呑気に訊いてくる。訊かなくても分かっているくせに。
手の中に捕らえた獲物の様子を覗き込む。
辺りのしじまを笛の音が切り裂く。囲み込んでくる追忍の気配に空気が微かに揺れる。
「イルカ先生、俺も牙を持っていますよ、」
カカシは微笑んでイルカの唇に喰らいついた。

この人の為なら俺は迷う事は無い。一瞬たりとも。

カカシはイルカの黒髪に指を埋め、その唇を激しく狂おしく貪った。飢えた獣の様に。
互いの唇から漏れる荒々しい息遣いに恍惚とした。獲物を切り裂く牙で今は甘くイルカの舌先を齧る。
「いつ…っ」
顔を顰めるイルカに、
「だから油断しちゃ駄目ですよ?」
今度はカカシがしゃあしゃあとのたまう。
ワンと空気が鳴り闇に追忍の殺気が満ちる。
イルカが口元の血をぐいと拭いながら、
「飼い慣らしてやりますよ、」
挑戦的にほざいた。

それはこっちの台詞。

カカシは小さく笑いながら、姿を現した追忍に迷う事無くその鋭い牙を剥いた。


終わり


後日談…というか、このイルカとナルトに密かに五代目と自来也が手を貸しているという設定があって、「この二人の力でここまで逃げ切れる筈は無い…誰か手を貸したか」とカカシが心中呟く台詞があったんですが、入れ忘れてしまいました(第4回部分)。ははは。だから数年後にほとぼりが冷めたころ、また3人は里に戻ってくるんです。余力があったら書きたいですが、一先ずPieta道行きの留めはここでお終いです。タイトルはイルカの為(=信仰)に迷う事無く茨の道を選ぶ(=磔刑に十字架を背負ったままゴルゴダヘと歩く)カカシ(=イエス・キリスト)をイメージしました。本当は逃亡の最中もっとカカシを傷付けて、気丈なイルカに涙を流させよう(=Pietaのイメージ)と思っていたんですが、それもまた余力があったら。文章がだらだ〜ら長くなりがちですみません。お付き合いいただいてありがとうございました! しの