(3)
夜の静寂を切り裂く笛の音に吸い寄せられるように、黒い影が一つまた一つと姿を現す。
疾走する足を止めぬままに笛を口から離した男が、「あの下です、」と空高く旋回するように飛ぶ夜鷹を指し示した。
僅かな時間に随分と遠くに逃げたものだと感心しながら、カカシは素早く目算した。

まだ距離がある。だが十分もすれば直に追いつく…。
その僅かな間に、俺がこの茶番に何を求めているのか分かるのだろうか…?

形の無い奇妙な焦燥を振り切って、カカシは冷静に指示を飛ばした。
「俺が中央から直接追い込む。五名は残り退路確保の為待機。人選は任せる。その他は先回りして包囲網を敷け。」
「後方援護は?」
「不要、俺一人の方が油断するデショ?」
「はっ、」
夜鷹を見失わないように、カカシが地面を蹴り枝渡り移動へと走法を変えると、それを合図に一度は集まった人影が蜘蛛の子を散らすように夜の闇に消えていく。

もう逃げ場は無いよ、

カカシは木々の間を枝から枝へと跳躍して進みながら、心の中で一人呟いた。

今度は俺に牙を立てる?無駄だと分かっていても。

その瞬間を思い浮かべてカカシはぞくりと背筋を震わせた。
普段温厚なあの人が敵意も露わにぎらつく双眸で自分を睨み、獰猛な咆哮と共に鋭い爪でこの体を切り裂く瞬間を。
実際そんな瞬間は訪れず、イルカの爪よりも早く自分の刃が全ての決着をつけるであろう事は分かってはいたが。

俺はあの人の牙を、爪を…この身に受けたいのだろうか?

世迷いごとを考えてカカシは自嘲した。
自分から傷付きたいなどそんな馬鹿な事があるはずない。好き好んで拵えた傷なぞ一つもなかった。
それでも自分の体にくだらない怪我が絶えないのは臆病だからだ。

俺はいまだに躊躇する…もう数え切れないほどこの手で人を殺めてきたというのに…

それは誰が相手でも変わらない。例えば如何なる卑劣な敵であろうとも、最初の攻撃の一振りに必ず躊躇する。
任務という名の下に、人が人を殺めるという行為に。
名前も知らぬ、初めて顔を合わせた相手と当然の様に憎悪を飛ばしあい、己の正当性を証明する為に刃を抜く。延いては里の為に。
分かったような振りをして、納得したような振りをして。
だけど実際はいつも漠然と罪の意識のようなものを感じていた。
それが最初の一撃を甘くする。その瞬間の心の隙を敵が見逃す筈も無く、いつもくだらない怪我を負ってしまう。
いつかその躊躇いが致命傷になりうることも分かっている。だが自分自身でもどうする事もできない。
冷酷で知られる写輪眼のカカシがまさかそんな感傷を抱いているとは、誰も想像だにしないだろう。
何を今更と笑い話にもならない。だからこの事は自分以外誰も知らない。誰かに言ったところでどうにもならない。

それなのに、あの人は…イルカ先生は分かったような口を利く…

『カカシ先生、お願いですから、怪我を、しないでくださいよ?』
まるで怪我の原因がカカシ自身にある事を分かっているかのように。子供に噛んで含めるようにして。
些細な怪我も見逃さずに必ずそう口にする。イルカが気付いている筈はないのに。

あんたは本当に躊躇わないんだろうか?どんな時も…ナルトを背中に庇うような時は。

『俺は迷いません。一瞬たりとも』
一ヶ月前のあの時、はっきりと言い切ったイルカの言葉が頭の中でぐるぐると回る。

俺はもう一度…見たいのかもしれない…あの強い意志が宿った瞳をもう一度…

唸る風を耳元で聞きながら、カカシは枝を蹴った。その目の前に空高く飛んでいたはずの夜鷹が降下していく。
ハッとカカシが息を呑んだ瞬間夜鷹は姿を消し、その羽根の舞い落ちる下に追い続けていた後姿があった。
大きい影に金色の小さい影。

遂に追いついた…!

カカシがすぐさま地面に降り立つと、走っていたイルカが足を止めゆっくりと振り返った。
「あんたが来ると思っていましたよ、カカシ先生…」
不敵な笑みを浮かべるイルカの隣りで、金色の影がボウと煙となって姿を消す。
カカシはそれを唖然と見詰めた。
「ここにナルトはいません…あの子はもうずっと遠くまで…逃げおおせている筈だ…そこで、俺が来るのを待って、いる…」
影分身を作っていたのはイルカだったらしく、チャクラの大量消費に息が上がっている。
それなのにイルカはまるで諦めた様子はなかった。
「だから俺は…こんなところでまごまごしてるわけにはいかない…」
大きく肩で息をしながら、イルカが小刀を抜くのをカカシはぼんやりと見詰めていた。

続く