一ヶ月あまり前の事だ。
空に遊ぶ鳥が息苦しさに身を震わせて地に落ち、生命の息吹を謳う草木は枯れ果ててその色を変えた。
外れかかった九尾の封印から漏れ出す、禍々しき妖気に。
発端は封印を外し妖狐を御し、その力を以ってして全てを掌中に収めようと企てた不穏分子の所為だった。
ナルトを攫い封印を外しかけた段階で、漸く奪還の為に手配された上忍や暗部が追いつき、不穏分子はすぐに駆逐する事ができた。
しかし外れかけた封印から漏れ出る妖気は甚だしく、その場に居合わせた人々の力を以ってしても上手く制御する事はできなかった。
かなりの負傷者が出た。伝説の三忍自来也と五代目火影が駆けつけ、何とかまた封印をし直すまでの間。
十三年前の恐怖と絶望を喚起させるその光景は、新たな恐れとなって人々の心に焼きついた。

九尾を宿す少年を、このまま抱えていていいのかという恐れに。

そして増長する恐れは遂にはその存在の消滅を求める考えに帰結する。ナルトという存在の抹殺へと。

あの人がこの決定を諾々と受け入れるはずはない。それを知っていて俺は…

カカシは夜の闇に埋もれる国境沿いの森を走っていた。
自分が指揮する追忍の部隊を四散させて、方々からその行方を追う。
見つかったら笛が鳴る。
カカシは自分の息遣いしか聞こえない静寂の中を、それでも聞き逃すまいと耳を欹てた。
自分が一番に追いつけるように。

一番に追いついてどうするつもりだ?

カカシは走りながら薄く笑った。

この手であの人を裁くとでも?

よく分からなかった。忍ならば迷うべきでない自明の事も、今のカカシにはよく分からなかった。
二時間前の事だ。主だった上忍や暗部に緊急招集がかかり、イルカがナルトを連れて里を抜けた事が分かった。
里抜けはそれだけで重罪だ。しかも問題のナルトを連れてとなると、事態は更に深刻さを増した。
「また九尾の力を悪用しようとしているのかもしれない。」
「イルカは里を裏切ったのだ。」
「ナルトを放置していては、いずれまた十三年前と同じ悲劇が繰り返される事になる。」
古参を中心に興奮に我を失い気味な声が上がる。収拾のつかないその場を何とか押さえたのが五代目火影だった。
「待て。そんなに冷静さを欠いていては、上手くいくものも上手くいかぬ。至急追忍の部隊を立てる。志願者はいるか?」
次々に名乗りを上げる中で、カカシも立ち上がった。
「私が。」
カカシの名乗りに周囲は反対の声にざわめいた。
カカシがナルトに関わりすぎているというのだ。自分の教え子であったナルトに情のようなものがあるのではないか。
ひょっとしたら土壇場で逃がすつもりかもしれない。
しかしカカシはそんな戯言に背筋も凍るほどの冷たい声音で言い放った。
「私が一番適任と思います。件の忌子の上忍師でした。きっとナルトも私だったら油断するでしょう。他の誰でも無く私なら。」
そこには何等ナルトに対する情の欠片も無く、吊り上げた唇に縁取られた笑顔は残酷な愉悦を滲ませていた。
人とは思えぬ酷薄な様子にその場が一瞬静まり返る。
「では決定だな、」
静寂を破って火影の決定は下された。
「上忍はたけカカシを指揮官として追忍部隊を編成する。部隊を組み次第、即刻出立せよ。以上。」

あの時どうして志願したのか…そしてどうして綱手様は俺に一任したのか…
俺に対する不満の火種は燻っていたというのに…

それよりも。

俺は何故教えてしまったのか。
ナルトの身柄が確保される前の段階で、重要機密であるナルトの処遇をいち早く。
その事実がばれたら己の身も危ない。こちらの方が余程重罪に値するくらいだ。
教えられたイルカも敵愾心に溢れる瞳でカカシを射抜きながら、何か裏があるのかと疑わしい表情を浮かべた。
「カカシ先生、どうしてそんな事を俺に教えるんです?」
尤もな問いを投げかけられながら、カカシはおどけたように茶化すことしかできなかった。
「さあ?どうしてでしょうねえ。俺にも分かりません。」
「ナルトを、助ける為ですか…?」
「いいえ、」
カカシはゆっくりと、しかしはっきりと言った。
「そんな偽善ぶった気持ちは俺にはありません。俺は里の命令とあればナルトを手にかけます。ただ…」

『ただ』、何だ?俺は何と続けるつもりだ?

突然言葉尻を濁すカカシをイルカはジッと見詰めていた。
「カカシ先生、あんたは…」
言い掛けてイルカは困惑したように押し黙った。少し考え込むようにして鼻先を掻く。
そしてもう一度カカシの目を見据えて、
「あんた俺を買い被ってますよ…」
意外な事を言った。
え、と驚くカカシには応えずに、イルカは頭を下げると、足早にその場を去っていった。カカシを一度も振り返る事無く。
「…買い被ってるって…誰を…?」
茫然としながらカカシはその言葉を小さく繰り返した。

不思議なことを言う。一体どういう意味なんだろうか。

そう思いながら遠ざかって行く後姿に、何故かカカシは置いて行かれたような気がしていた。

…本当に俺は何がしたいんだろう…

暗く鬱蒼とした森を駆けながら、自分の心のようだとカカシは思った。全く、何も見えない。進むべき道も見つからない。

自分で逃げるように誘いをかけて、自分で追い詰める。…馬鹿げている…

本当は分かっているような気がした。あの日、イルカの迷いのない瞳を見てから。
何故かそれに気付くのが怖くて、そこから目を逸らす様にカカシが思わずギュッと目を瞑った瞬間。

ピー・・・と笛の音が鳴り響いた。


続く

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