(2)

それ以来、イルカはカカシの事を気にかける様になった。
グループ研究の際に一人孤立すれば声をかけ、授業を抜け出すような時は追いかけ窘めた。カカシはそれを悉く無視した。
級友どもは呆れたように、
「幾らクラス委員長だからって、お節介も大概にしとけよイルカ。IQ200の天才様は俺たちとは違うのさ、」
言葉とは裏腹に頭の上に指先で円を描いて見せた。
隣の席の幼馴染のアンコはもっと辛辣だった。
「よく聞きなさい、ポニーボーイ」
イルカの耳をギュッと引っ張って、アンコはヒソヒソ声で囁いた。ポニーボーイとはアンコがイルカを呼ぶ時の愛称で、イルカの揺れる括り髪を子馬のようだと揶揄してつけたものだった。
「カカシなんかに構っていたら、あんたいつか殺されちゃうんだから。鈍いあんたがカカシの本性に気づいた時には棺桶の中よ。嫌んなっちゃう、あたしそんなの許さないからね!」
気が強い幼馴染がその時だけ少し目元を濡らすのを見て、イルカはいつも不思議に思ったものだった。

だけど、アンコが心配するのも無理は無いな。

イルカは素直にそう思っていた。
その頃にはカカシは学校に於いて頻繁に刃傷沙汰をおこしていた。カカシの誰に対しても関心を示さない態度は、ややもすれば相手を見下しているような傲慢さの表れにも取れる。面白く思わない輩は多く、カカシが群れる暴徒の制裁を受けるのは必至と思われていた。
しかし実際その目的を遂げた者は無く、それどころかカカシに手酷い報復を受けた。ある者はナイフで目を抉られ、ある者は耳を削ぎ落とされた。
血迷った教師がカカシをレイプしようとした時には、口腔に差し込まれた舌を噛み切ったという。
「あいつは悪魔の申し子さ。噛み取った舌を吐き捨てながら、血の滴る唇を吊り上げニイと笑ったんだから。思い出しただけで背筋が震える、」
発見者の友人が大袈裟に身を震わせながら、クラスメイトに話して聞かせるのを、イルカは輪の遠くからぼんやりと見詰めていた。
皆の言い分も分かる。
けれども、カカシにだって言い分はあると思った。

いつでもカカシの残虐性ばかりが取り沙汰にされて、
カカシが被害者だって事を忘れてるんじゃないかな…

そんな不満がイルカの中にはあった。
カカシの両親が大金を積んでいる所為もあったが、カカシは正当防衛が認められて、大した罪に問われる事はなかった。
それがいい証拠ではないかとイルカは思った。
ナイフで抵抗する事を全面的に肯定する気は無いが、カカシがクレイジーだという風聞には否定的だった。
少なくとも、カカシは自分に危害を加えるような事は無いと、イルカは勝手に信じ込んでいた。
だからイルカは怯む事無くカカシにお節介を焼き続けた。
しかしカカシはイルカに一瞥を投げ掛ける事さえもなかった。
それがある日突然。
カカシの方からイルカに声をかけてきた。
冬も近い風の冷たい日のことだった。
イルカはその日の午前中、教室から姿を消したカカシの行方を捜していた。カカシのサボタージュは日常茶飯事だったが、そんなに長時間続けて席をあけるのは珍しい事だった。

今日は寒いし…急に具合が悪くなって、何処かで蹲っているんじゃないだろうか…

馬鹿な想像にしかしイルカは青褪めて、一人カカシを探した。
カカシは出入り禁止の屋上で見つかった。
冷たい風の吹き付ける屋上にはカカシの姿しかなかった。
びゅうびゅうと吹き付ける風に、
「カカシ、」
イルカの呼ぶ声は掻き消され、カカシには届いていないようだった。

なんだってこんなところに…物好きだな。

思いながらもイルカは首をかしげた。この場所はさっきも一度探した。その時にはカカシの姿は無かった。一体どこにいたのだろうか。
カカシの視線はその膝の上でぱらぱらと勝手に捲れる本に注がれていた。

何を読んでいるのかな…

覗き込もうと一歩近づいてドキリとする。
本を見詰めるカカシの表情は、酷く悲しげで。
見る者の心を深く抉った。
イルカは何か、見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった。罪悪にも似た気持ちが己を責め立てる。

カカシは…今、一人きりになりたいんじゃないのかな…
こんな姿、誰にも見られたくなかったに違いない…

自分のお節介を初めて恥じながら、イルカはそっと後ずさった。気付かれないうちにこの場を去るつもりだった。その時突然、カカシが呟くように言ったのだ。
「ねえ、あんた神様って信じる?」

カカシが俺に話しかけた…

驚きながらもイルカは無言で頷いた。
「俺はねえ、信じない。神様なんていないよ。神様を信じた男がどんなに馬鹿をみたか。読むたびに滑稽な気持ちになる。」
その言葉にカカシの手にしたボロボロの本が聖書である事を知った。

エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ
(わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか)

愉快そうにカカシが謳う。
「裏切ったのはユダじゃない。そうでしょ?」
でもどうしてか。その笑顔が泣き出しそうに見えた。
「神様なんて、いない。」
本当はその存在を、信じさせて欲しいように。

だから何回も聖書を読んだんじゃないか?
こんなにボロボロになるほどに…

イルカは何と答えてよいか分からず、無言でその場に突っ立ったままだった。情けなかった。何も答えられない自分が。
間抜けに突っ立ったままの自分を残して、カカシがその場を去った後も。イルカは暫くの間ずっと動けないでいた。
傍らを通り過ぎたカカシから、微かに汗のような獣染みた臭いがした。




「イルカ、次は鑑識に向かうぞ。」
アスマの言葉にイルカはハッと我に返った。
「…ここはもういいんですか?」
既に背を向けたアスマの後をイルカは慌てて追いかけた。
紅は現場に残るようで、ペンを握った手元を忙しなく動かしながら、検死官に相槌を打っている。
「ああ、知りたい事は分かった。後は紅に任せときゃあ、完璧な報告書がデスクの上に昼過ぎには届いているだろうよ。頼りになる部下を持って俺は幸せだぜ、お前もはやくあれくらいになれよ」
力を込めて背中を叩かれ、やれやれとイルカは苦笑した。

アスマ先輩の「頼りになる」は「扱き使える」と同じ意味だからなあ…

紅さんお気の毒にと心の中で同情しながら、イルカは助手席に乗り込んだ。
「冷え込むと思ったら雪か…」
アスマの呟きに窓を見ると、ちらちら雪が降り始めていた。
車を走らせる前に一服とばかりに、アスマが咥えた煙草に火をつける。
「今年のクリスマスも休めそうにねえなあ、神様のご威光なんてそんなもんかね、」
やってられねえなとアスマは煙を吐き出しながら、不穏当な発言をした。
聖なる夜も犯罪は起こる。
イルカは身を以ってそれを知っていた。
ぎゅっと手を握り締めるイルカに、
「…すまねえ、お前の親父さんたちは確か…」
アスマがばつが悪そうな表情を浮かべる。
その言葉を遮るようにイルカは作り笑いを浮かべた。
何年経ってもその話をされるのは辛い。
自分で思い出す事も。
だから街にアドベントクランツが灯り、クリスマスデコレーションに彩られるこの時期は、楽しかったクリスマスの思い出だけを考える。
両親が殺される前の、最後のクリスマスを。

だがその楽しかった思い出も、今から辛いものに変わるかもしれない。

イルカは殺人現場の死体を思い浮かべながら、そっと目を閉じた。
「俺、ジュニアハイの時、クリスマス生誕劇で天使の役をやったことがあるんです。」
突然矛先を変えた話に、
「はっ…そりゃあ随分と可愛げのない天使だな、」
アスマは抗議の声を上げるでもなく、すぐに野太い笑みを浮かべて答えた。アスマのそういうところがイルカは好きだ。
傍若無人のようでいて酷く優しい。
「仕事に忙しい両親が揃って見に来てくれて…俺は張り切ってたんですけど、もう一人の天使役の奴が全く練習に出てこなくて…」
「気持ちは分かるぜ…野郎が天使の衣装を着て楽しかったら変態だ。」
アスマ先輩、と語気を強めて窘めながらも、イルカは先を続けた。
「もう一人の天使役を面白く思わない奴が多くて…クリスマスの当日、天使の衣装だけ破られてたんです。背中の羽根も片方もぎ取られて…」
「おい、」
勘のいいアスマが片眉を上げた。
「作り直している暇なんて無かった…俺達は片方の翼のまま、教室のカーテンを体に巻きつけて舞台に上がったんです。…二人で身を寄せ合わせて…一対の羽根になるようにして。」
後日カカシは美術の時間にその絵を描いた。
二人で羽根を分け合う天使。
それを分かつように自分の前で二つに破り捨てた。
「その時の絵を、俺は持っています。」
現場に残されていたものと同じタッチの、片翼の天使を。




「警部補、十三年前のハタケ財団殺人事件の資料です、」
紅が山ほどの書類を抱えて、バアンと15分署のドアを足で蹴り開けた。はっきり言って、下着が丸見えだ。
イルカは茹蛸の様に赤くなって顔を俯け、アスマは嘆息しながら大袈裟に手で目を覆った。
「大した行儀のいいレディもいたもんだな、それは何処の国のマナーだ?」
呆れるアスマに、
「手が塞がっていたもので、」
紅は悪びれずにニッコリ微笑んで、また後ろ足でドアを蹴って閉めた。
「イルカ、これでもよおしてたら罪になるんだぜ?どっちが強制わいせつか言ってやれ、」
ぽんぽんと肩を叩くアスマを無視して、
「俺の母親もよくそうやって足でドアを閉めてました。」
イルカはぎこちなく笑って紅のご機嫌を取った。紅の機嫌を損ねる方が何倍も怖いと知っていた。
「ったく、腑抜けが」
アスマはイルカを小突くと、やれやれと紅から渡された書類に目を通した。今更十三年前の事件が蒸し返されるのは、イルカが任意提出した過去のカカシの絵の所為だった。
始めは半信半疑だったアスマも、いざその酷似性を目の当たりにすると、真剣な表情になった。
イルカの絵はすぐに鑑定にまわされ、その結果「同一人物が描いた可能性が著しく高いといえる」という専門家の見解を得た。事件は動き出したのだ。
「ふん、これが『カカシ』か…」
アスマの呟きに、書類に挟まれたカカシの写真をイルカは覗き見た。記憶に残るカカシは冷徹で大層大人びていたが、今大人になったイルカの目から見ると、まるで印象は違った。

なんてあどけないのだろう。

イルカは胸が締め付けられた。写真の中のカカシはなんて淋しそうな瞳をしているのだろう。あの時はまるで気付かなかった。

こんな子供を性欲の対象にする大人がいるなんて…
反吐が出そうだ…

知らずイルカはギュッと拳を握っていた。憤怒で眩暈がするほどだった。十三年前のハタケ財団のスキャンダルを知らぬものはいない。慈善事業家のハタケ氏が中心となった孤児の養育で知られる慈善財団は、幼児売春組織の隠れ蓑だった。
参加企業は子供を横流しするルートだった。斡旋先の目的は売春ばかりとは限らない。商品価値の無い子供は臓器売買や果てはカルト宗教の生贄に「商品」として提供された。
その中でもハタケ氏が養子縁組した数少ない子供達は、「高級品」とランク付けされ、文字通り政治家や著名人などハイソ専門で、ある程度の教養も仕込まれる。カカシはその「高級品」だったというわけだ。
その事を知った時のイルカの衝撃は、とても言葉では言い尽くせない。ボロボロの聖書を熱心に読み込んでいたカカシの姿が浮かんだ。

わが神、何故私をお見捨てになったのですか。

謳うように言ったカカシの言葉を。
泣き出しそうな顔を思い出していた。
どんな思いでカカシは聖書を捲ったのだろうか。
そう思うとイルカの瞳からとめどなく涙が溢れた。

神様…!

イルカはカカシの為に毎晩祈った。ベッドの前で跪いて。

神様、どうかカカシを救ってください。
雪をしのぐ柔らかな寝床と。温かいスープと。
何よりも。彼を優しく抱き締める腕を。
彼を心から慈しむ人を遣わせて下さい。
人を殺した罪ならば、僕が代りに償います。
どうしたらいいのか分からないけど、僕が。

だから神様。これ以上カカシを酷い目にあわせないで。

カカシは信じないと言った神様に。
一生懸命祈った。
昔を思い出して僅かに顔を歪ませるイルカに、
「私情は禁物だ、分かるな?」
アスマがさり気なく念を押した。
「分かっています、」
イルカに最早迷いはなかった。
少年の頃は逃げ延びてくれる事を祈った。
何処かで幸せになってくれる事を。
だが殺人を重ねるカカシの罪を、放って置く訳には行かない。
幸せになれないままのカカシを放って置く事は、決して。
「俺が捕まえてみせます。」
イルカはきっぱりと応えた。


つづく