(1)

孤児院を次々と立てる裕福な慈善家は裏では子供達に売春を強要していた。俺もその一人。
13の時に漸く法律上は養父母の元締めを殺して逃げた。
その現場を、ずっと学校を休んでばかりの俺を心配して、
訪ねて来た唯一のクラスメイトに目撃された。
お節介で真面目な、教師の息子。
殺してしまおうと思った。
見られたからには殺してしまおうと。
だが彼は言ったのだ。
「大丈夫、カカシ…!?何処か怪我してるんじゃない?」
血に赤く濡れた俺の体を心配して。
足元に転がる死体を築いたのは俺なのだと、露ほどの疑いも抱かずに。駆け寄って俺の体を抱き締めた。
「もう大丈夫だよ…怖かったね、今…警察呼んだから…っ」
自分の方が余程震えているのに、そんな事を言う。
この世でセックス抜きで俺を抱き締めた、初めての手。
心臓から吹き出す血よりも暖かく、ナイフを突き立てるよりも興奮する。
欲しいなあと思った。
でも俺もそいつもまだ子供だったから。
まだ早すぎると思った。連れて行くにはまだ早過ぎる。
アイシアウには早過ぎる。
俺たちは足元に転がる下衆どもと同じじゃない。そうだろ?
だから俺は印をつけた。
時間が経っても、どんなに人混みにいても、すぐに見つけられるように。
「きっと迎えに行くよ、イルカ」
ナイフがその鼻の上を切り裂いても、イルカは何をされたのかわかっていないようだった。
「ああ…っ!?カ、カカシ…っ待って…!?」
顔を押さえながら、イルカが俺の名を呼ぶ。

大人になったら、きっと迎えに行くから。
また、俺の名前を呼んでね?

パトカーのサイレンが近付くのを聞きながら、俺は窓からひらりと身を躍らせた。




「ったく、なんだ?このスタンドのホットドックは。食えたもんじゃねえ、豚の餌だな。」
「お言葉ですが、アスマ先輩。店主の親父さんを前にその発言は如何なものかと…」
何かと気遣いの新米刑事・イルカはごほごほと咳払いをした。
「いいんだよ、若いの。その髭もじゃはうちの立派なホットドックをやっかんでるのさ。大方女房がうちのホットドックに鞍替えしたんだろうよ。」
親父の下品なジョークにイルカが顔を赤くすれば、
「俺ァ独身だ!ついでに俺のモノが如何にすげえかも見とくか?」
アスマがズボンのチャックに手をかける。
「ア、アスマ先輩!」
流石にやりすぎだとイルカが赤い顔でギロリと睨みつければ、
「ちょっとした冗談だろ?」
「可愛い刑事さんだねえ、大丈夫かい?」
アスマと親父が同時に揶揄する。
イルカは憮然としながら、手にしたコーヒーを啜った。
いつも通りのNYの風景だ。
「何か食っとけ、今日は忙しくなる。」
アスマの言葉にイルカは無言で首を横に振った。
きっと十分後には胃に何かを入れたことを後悔する。
既に一度現場で無様に吐いてしまっている。
もうあんな失態を演じたくは無かった。
「いくぞ、」
アスマは車に乗り込みながら、イルカをちらと見遣った。
「今度のも同じ手口だ。客もだが…売りの餓鬼の方も殺られてる。餓鬼の方は十歳前後でもうヤク中だ。ったく、朝から胸糞悪いぜ、」
無言のままのイルカに、アスマは煙草をふかして一拍置いて言った。
「…お前、大丈夫か?本当…」
アスマは何かと一言目には「刑事に向いてねえ、早くやめちまえ」とイルカを諭す。
今も子供が殺される凄惨な現場に、イルカが心を痛めているとでも思っているのだろう。
確かに心を痛めてはいる。だが、そんな事で捜査に支障を来たすような生半可な気持ちで刑事の道を選んだわけじゃない。
十年前、自分の両親を殺した犯人を挙げること。
それが叶えられるまでは決して退く気は無い。
今イルカの心を揺らしているのは、事件への痛みではなかった。滅多な事を口にできないが、最近NYをにぎわしている連続殺人事件…その犯人について、どうしてもある人物の姿が思い浮かんでしまう。生きているのかも定かではない、十年前に会ったきりの友達…。
カカシ…
心の中でその名を呟きながら、イルカは鼻の上の傷跡をそっと撫でた。




なぜうなだれるのか、私の魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう。
「御顔こそ、私の救い」と。
わたしの神よ。


アスマとイルカが事件現場に着いた時には、既に建物の入り口は封鎖され、現場処理班が忙しく立ち回っていた。
「アスマ警部補、遅過ぎです。」
先に到着していた同じ15分署の紅が、腕組しながら苛々と出迎えた。
「重要な事だけ掻い摘んで報告しろ。」
アスマは慣れた仕草で噛み付く紅を牽制しながら、煙草の煙を吐き出した。
「ガイ者は四十代の牧師と十代のストリートボーイです。牧師は常連客で、少年にクラックを横流ししていた疑惑があります。」
「運び屋か…ブツは出たのか」
「はい。捻じ込まれてました。硝子のパイプごと―――牧師のアナルに。」
「前衛的じゃねえか。アンディ=ウォーホールの信者か?」
ケッと唾を吐くアスマに紅が透明な袋に入った紙片を差し出す。それをイルカは横目でちらと覗き見た。何かが描かれた紙切れ。確認しなくても何が描かれているか分かっていた。
片翼の天使。
もう幾度と無くその素描を目にしている。
凄惨な現場で。―――そして十年前にも。
イルカは熱心に仕事をする検死官の隣に立って、漸く被害者と対面した。
……酷い。
残酷に切り刻まれた牧師の死体に、胃液が競りあがってくる。一見無作為に切り刻まれているようでいて、その死体には法則性があった。
抉り取られた眼球と舌が肛門に突っ込まれ、切り取られたペニスは口に捻じ込まれている。そして切り裂かれた胸から取り出された心臓は、無残にも踏み潰されていた。
そこに激しい憎悪を感じた。
それに比べ、少年の死体は綺麗なものだった。激しく血塗られているものの、傷はぱっくりと開いた首筋のものだけだ。
頚動脈を一突き。きっと少年は然程苦しまずに逝けただろう。
その事実に少しだけ安堵している自分にイルカは苦笑した。
殺人にはかわりが無いのに。
この事態を招いたのが自分ではないのかという罪悪感があった。
あの時。引き止めることができなかった。カカシを。
救うことができなかった。
もしもあの時、引き止めることができていたら。
この凶行は起こり得ず、それどころか更生プログラムなどの適切な処置によって、傷付いたカカシの心を癒す事ができたかもしれないのに。
この犯人はやはりカカシに違いない。
イルカは漠然とではあるが、そう確信していた。
片翼の天使。
それは十年前の聖なる夜を喚起した。
学校で行われたクリスマスのキリスト生誕劇の事を。
その日は天使の羽根の如き雪がふわふわと舞っていた。




俺が狂っているというなら、世界も狂っている。
全てがイカレタ中で唯一。
あんただけが真実。
あんただけが生きる希望。俺の生きる意味。


ジュニア・ハイのクラスでカカシは浮いた存在だった。
あらゆる意味で。神の名工が鑿槌で穿ったかのような整った容貌。IQ200の明晰な頭脳にずば抜けた運動能力。天賦の才に恵まれた少年はさぞ羨望の的になるかと思いきや、その存在は恐怖の対象でしかなかった。
カカシが日常に垣間見せる残虐。
それが周囲を怯えさせた。
イルカが覚えている中で一番強烈だったのは、学校の飼育小屋のウサギ・トッドの件だ。老朽化した網から侵入した野犬に襲われ、命は助かったもののトッドは腹に大怪我を負った。折りしも蒸し暑い時期の話だった。腹の傷から蛆が沸いた。
まだ生きているトッドを蛆どもが蠢き食い荒らす。
おぞましくも悲しい光景だった。
女の子達は金切り声を上げて泣き叫び、気持ち悪いと口元を覆った。もう助からないだろう、と先生は言った。
それじゃあ、トッドはどうなるんだろう。
イルカは不安になった。先生は隣のクラスの先生と家畜の衛生上の問題について額を寄せて話し合っている。怖くて訊けなかった。「トッドは生きたまま埋められちゃうの?」「それとも衛生局の人に袋に詰められて、ダッシュボードに押し込められるの?」トッドの鼻先はヒクヒクと震え、その命の残り火を訴えているのに。本当にもう助からないの?
だけどトッドの辿った末路はそのどれでもなかった。
カカシが殺した。蠢く蛆にも臆する事無く、狩猟用のナイフでトッドの心臓を抉った。眉一つ動かす事無く。
側にいた女の子達が悲鳴を上げて泣き出した。
男の子達も多分人生で始めて目にする残虐に、足が震えていた。

そう、俺も震えていた。

イルカは思い出してそっと目を閉じる。
カカシは抉り取った心臓にも蛆が巣食うのを見て、その心臓を握り潰した。潰れた心臓に飛び散った血がカカシの白い頬を汚す。しかしカカシは微動だにしない。異様な光景だった。
「カカシ、何て事を…!」
その時イルカはそう言いかけて絶句した。
何と続けていいか分からなかった。
苦しむトッドを見ているだけしか出来ない自分。
ダッシュボードに生きたまま捨てられるのと、蛆が心臓を喰らいつくすまで見守られるのと、今こうして確実な「死」という区切りが与えられるのと。トッドはどれを望んでいただろうか。そんな馬鹿な考えが頭を掠めた。
カカシのその長く美しい指先に赤く染まった蛆が這っていた。
それを目にした瞬間少しだけ。カカシが悲しそうな顔をしたように見えた。何処かその死を憐れむように。
それは思い込みかもしれないけれど。

ただ残酷だけじゃない…
何かがあるような気がしてしまったんだ…

それが全ての始まりだった。


つづく