薄氷の張った川に躊躇することなく血に汚れた手を浸した。
痺れるような冷たさが狂気を孕むほど昂揚した気持ちを鎮めいく。
僅かな熱の燻りも許さぬように、降り出した雪がそれに加勢した。
その冷たさは人を殺した穢れを清めてくれる禊のようでもあり、またその罪を贖わせる陳腐な罰のようでもあった。
はたけカカシにとって。


ヌクモリ。

「まずったな。」
呟きは夜の静(しじま)に呑み込まれた。音も無く舞い落ちる雪がカカシの上に降り積もる。
今日中に里に帰りたかったのに間に合いそうにない。ただでさえ帰還が遅れているのに。
まずったな、ともう一度カカシは小さい声で繰り返した。

そう、今回は失敗した。
といっても、任務は成功した。失敗したのは自分の精神のコントロールだった。

暗部での日々は血と人殺しとにまみれていた。でもそれに疑問を感じていたわけでもない。
それが自分の仕事だと知っていたし、それしか出来ないことも知っていた。
だから殺し続けた。淡々と。
それがいつの頃だったか、軋み始めた。
カカシの心が。
何かを訴えて。
けれどもカカシは敢えて気付かぬふりをした。
それは忍として致命的なことだったから。
放置された軋みは歪みを生み出した。
歪んだ心は徹底的な破壊と殺戮を求めた。迷う余地の無いほどの徹底を。
自分自身の手で退路を断つやり方にカカシは満足した。
だってつらいから。
どうせ戻れないのだから。

しかし今回の任務でカカシはまた胸が波立つのを感じた。
今回カカシは単独任務であった。
木の葉に遺恨を持つ者達の地下組織に潜入し、壊滅に追い込むという内容だ。
忍ではない者達の組織だった。侮って放っておいたら、いつの間にか脅威を感じるほど肥大していたのだ。
リーダーの男のカリスマ性と統率力が組織の要だった。まずはそいつを消す。そうすれば後は所詮烏合の衆、簡単に始末できる。
カカシはそう考えたが、実際は男の所在がなかなか掴めなかった。余程用心深い男なのだろう。
そこで側近に付け入った。その側近は中年の女で、木の葉の戦乱に巻き込まれ一人息子を失っていた。
―――あんたと背格好も年の頃も良く似ているよ。その無愛想なところもね。
まだ子供だったのに、と呟いてオンナは少し哀しい顔をした。そして慈しむような微笑をカカシに向けた。
そこに付け込んだ。
13歳のカカシはまるで警戒されていなかった。オンナは子供は全て無垢な存在と思っているようだった。
更にカカシの片目を隠すための包帯が、オンナの庇護の心を掻き立てた。

カワイソウニ。

そう言ってカカシの頭を何度も撫でる。
けれども、そうしたことにもカカシは心揺らぐことは無かった。阿呆め、と心の中で冷笑することはあっても。


オンナの情報からリーダーの寝首を掻き、拠点を叩き潰した。
ミナゴロシだ。阿鼻叫喚の地獄絵図の中、カカシは恍惚と微笑んだ。
もっとだ、もっともっと。
逃げ惑い、許しを乞い、時にはその切先を向け。
怨嗟と恐怖の叫びで。
もっともっと俺を楽しませて?
凍てついた心が抑えられない熱を感じるこの一瞬のために。

あのオンナは放心して動けないでいるようだった。
殺さないとな。
カカシは酷薄な笑みを浮かべ、オンナにクナイを振り下ろした。
その瞬間。
カワイソウニ。とオンナが呟いた。
カワイソウニ。
呟きがカカシの耳に届いた時にはオンナは既に切り裂かれ、ただの肉塊と化していた。
しかしその言葉にカカシは動揺した。
何かがじわりと湧き上がる。

だめだ、

カカシは叫んだ。

だめだだめだだめだだめだ......

やり過ごさなくては。
もっと殺して。
もっと血を受けて。
勘違いしないように。己は「ヒト」なのだと。
これ以上ないところまで堕ちなくては。
だって俺は「ヒトゴロシ」なのだから。





雪は止むでもなく吹雪くでもなく、ただ深々と降り続けていた。
冷えきったカカシの身体は既に感覚が無く、休息を求めて悲鳴を上げていたが、カカシは構わず先を急いだ。
夜の闇の下に横たわる白銀の世界は静謐で美しく、そしてカカシだけがその世界に相容れない穢れた存在なのだと残酷に知らしめる。

いっそこの雪に埋もれてしまえば。

カカシは足を止め、舞い落ちる雪を仰ぎ見た。



その時だった。

「何してるの?」

カカシがその声にハッとして振り向くと、そこには少年が立っていた。
くりくりとした大きな黒い瞳と鼻筋を横に走る傷跡。高い位置で括った髪。
年はカカシとさほど変わらないようだった。寒さに鼻先を赤くさせて、不思議そうにカカシを見つめている。

こんなに接近するまで気がつかないなんて、暗部失格だな。

カカシは苦笑した。
それをどうとったのか、少年もつられて顔をほころばせた。

ふうわりと。

なんてやさしい。

カカシは急に胸が苦しくなった。この少年に近づいてはいけない、と天性の勘が警鐘を鳴らした。どうしてなのか、その正体も分からぬままに、カカシは俄かに警戒の色を強めた。しかし少年はといえば、鈍感なのか計算なのか、そうしたカカシの様子にはお構いなしだった。

「道に迷ったんだろ〜?実は俺も!」

「俺はイルカ.。きみはなんていうの?」

「木の葉の里まで帰りたいんだ。」

「暗いし寒いし。道わからないし!ひとりぼっちでどうしようかと思ったけど。」

イルカ、と名乗った少年は、カカシと出くわして余程嬉しかったらしく、一方的に捲くし立てた。
そして、心底嬉しいといった会心の笑顔を向けて、

「ふたりなら、なんとかなるよね!」と宣まった。

その笑顔にカカシは思わず見惚れてしまった。なので、反応が遅れた。
カカシの指先に暖かいものが触れる。
カカシが視線を落とすと、イルカの手がカカシの手を包むようにして、ギュッと握っているのが目に入った。カカシは呆然としてそれを見つめた。
何コレ、と思いつつも振り解けない自分に驚く。

「うわっ、きみの手冷たいね!」とイルカも驚いた。

イルカは咄嗟に、カカシの手を自分の顔の前に持ってくると、はあーっと息を吹きかけた。何度も。一生懸命。
随分長い間雪の中にいたみたいだね、凍傷にならないかなあ、大丈夫かなあと、しきりに心配しながら。
熱が戻ってくるのをカカシは感じた。任務、つまり殺し以外で初めて、熱を感じた。しかもその熱はなんて心地の良いことだろう。
知らなかった、こうして熱を分け合う方法を。
寒い。寒かったのだ、ずっと。ずっとこれが欲しかった。他のヒトにとっては多分とってもささやかで、取るに足り無いようなもの。それが欲しかった。でも諦めていた。自分には手に入らないものだと。
堰き止めていた感情が溢れ出した。こうなることを恐れていた。でもこうなることを望んでいた。
そして、もっと欲しいと思った。イルカのくれるヌクモリをもっと。もっと暖めて。

「帰り道さがそっか?」イルカは当然のように手を繋いだまま、カカシに問い掛ける。
カカシは無言のまま、ギュッとイルカの手を握り返してそれに答えた。
絶対に手放すまい、とカカシは心に誓って。


                                終

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