(9)


詰って、踏み躙って。
イルカが屈服してくれればいいと思った。自分が間違っていたと。自分が愚かだったと。そして、許してください、と。イルカが懇願してくれればいいと思った。自分の考えを翻して。今までの全てを否定して。矮小な己を曝け出して、卑屈な笑みでご機嫌伺いをするがいい、と。

そうすれば。
そうしてくれれば。

きっと俺はイルカのことを軽蔑できた。他の奴らと同じように、愚劣な奴だと放っておけたのに。

だけどイルカは変わらなかった。詰っても踏み躙っても。ずっと同じ、イルカのまま。
自分のためにじゃなくて、他人のために。いつも。いつも一生懸命で。いつも辛抱強くて。いつも笑ってる。
俺は焦燥に駆られた。
そんな筈は無い。そんな奴はいない。俺は躍起になる。
何度も詰る。何度も踏み躙る。それでも変わらないことに困惑する。

だって、変わらなかったら軽蔑できない。
変わらなかったら、愚劣な奴だと放っておけない。

詰れば詰るほど。踏み躙れば踏み躙るほど。
どんどん、どんどん。
俺は。
イルカのことを。

その感情はあまりに激しすぎて、俺は恐れ慄く。
こんなに狂おしく求めても、きっとこの願いは叶えられないと分かっていた。

お前の知らない世界の話だ、とアスマは言った。何気なく紡がれたあの言葉は、思いも寄らないほどの衝撃を俺にもたらした。思っても無駄だ、と通告されたような気がした。イルカと俺は、住む世界が違い過ぎるから。どんなに思っても無駄なのだと。そのことは俺も知っていた。気がついていた。だけど気が付かない振りをしていた。ずっと。

気が付かなければ、ずっと夢見ていられると思った。
陽炎のように儚くも、すぐに消えてしまう夢でも。
イルカの傍に。イルカのいる世界に、俺も飛び越えていけるのではないかという錯覚に、縋っていたかった。
滑稽だった。本当に愚かで嫌らしいのは俺の方だった。詰られるべきは俺の方なのだ。

求めていた、イルカを。

自分はいつも戦場にいた。尊ばれるべき命はガラクタの様に取引され、守るべき確かなものなんて何もなかった。里のため。仲間のため。申し訳程度の帰属意識は、しかし漠然としていて何の拠り所にもならない。滴る血と腐臭を放つ肉塊に囲まれた世界はいつも暗く、住み慣れたはずの自分でさえ時々方向を見失った。欲しかった。自分を照らす優しい灯火が。俺を導く、確かなものが。いつもずっと変わらずにそこにあって、俺を迎えてくれるものが。ずっと、ずっと。欲しかった。

それが、イルカだったら、と。

だけどイルカの瞳には、俺は暗い陰のようにしか映らないだろう。
俺が眩しくてイルカの姿を捉えられないように、イルカは暗闇に蠢く俺の姿を捉えることができないのだ。

だから。
軽蔑させて欲しかった。
愚劣な奴だと思わせて欲しかった。
諦めさせて欲しかった。
詰って。踏み躙って。

それでも変わらないイルカに安堵しながら。
心は苛立ち、失望していた。

求めても手に入らないものが、目の前にある残酷さに。

やっと、見つけたのに。



続く