(8)
夜明けの訪れと共に、カカシの部隊は予定通り目的地に到着した。出発前に知らされていた位置よりも陣営はやや後退していた。苦戦を強いられている証拠だった。到着するとすぐに、一足先に着いていたらしいアスマが待ち構えていた。
「よお、遅かったじゃねえか。」軽い調子で言いながら、カカシに向かって目配せをする。
何かあったか。
カカシはアスマの意図を瞬時に読み取って、集団の輪からさり気なく離れるアスマに肩を並べて歩く。到着した時点で部隊の指揮権は現地の担当者に移行していた。実質上、部隊についてカカシはもう無関係だった。しかし、直ちに医療活動を始めるようにと指示を飛ばす担当者の声に、カカシは思わず足を止めて背後を振り返った。
「なんだ?何か気になることでもあるのか?」アスマが怪訝な顔をした。
「いや、別に...。」
どうして振り返ってしまったのか、カカシは自分自身にも分からなかった。ただ部隊に休息が与えられないことを意外に思っただけだ。
「着いた早々、扱き使われるのかと思って。」
カカシがポロリと漏らした言葉に、ああ、とアスマが疲れた顔をして頷いた。
「うちの部隊も同じよ。着いた途端、休む暇も無しに尻叩かれてよ。全くどうにかなっちまわあ。」
冗談めかして言いながら、その声音に微かに苛立ちの色を感じて、カカシはアスマの横顔を見つめた。未明の薄暗さに隠されて気がつかなかったが、よく見るとアスマは酷く憔悴している様子だった。その事実にカカシは少なからず驚いた。アスマは自分のテントにカカシを招き入れると、ちょっとだけな、と携帯用ボトルに入った酒を歪なカップに注いでカカシに手渡した。
「飲んでる場合?」何かあったんでしょ、と言外に臭わすカカシに、
「飲まねえとやってられねえ話だ。」とアスマは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「この前線から撤退命令が出た。裏同盟の密約書を運ぶ仕事も反古になった。わかるか?敵国に先手を打たれた。こちらが裏同盟を結ぶ前に、皆敵側に寝返ったってわけよ。勿論、膠着状態だった戦況は一気に不利な方へ動いた。俺達忍に足止めを頼んで、依頼主の大名達ぁ、サッサととんずらよ。今この陣営に残っているのは俺達忍と怪我人だけだ。」
そこまで言ってアスマはグイッと酒を呷った。カカシは俄かに緊張を強めた。
「...いつ撤退を開始する手筈だ?」カカシの問いにアスマはまた酒を呷ってから言った。
「お前ぇ達の到着を待っていた。今から引き払う準備を始める。その準備が整い次第出発だ。」
「何馬鹿なこと言って...無理だ。」
「無理でも仕方ねえ。」
昨夜木の葉に伝令の使役鳥を放ったから、追って救援部隊が派遣されるはずだとアスマが続けた。しかし、救援の手が届く場所まで一体何人が辿り着けると言うのか。前線の部隊は疲労が甚だしい上怪我人も多い。カカシとアスマの部隊も到着したばかりで休息も取っていない。その上その人数を補うだけの物資も乏しい。それなのに敵の追撃の手は厳しさを増すだろう。
「...俺の部隊は今回散々だぜ。ただでさえここに来るまでに、半分イッちまったってのによ。残り半分も大分疲労してるからな、休み無しでどこまで保つのか。」やってられねえ、とアスマは呟くように言った。
カカシはアスマの言葉に驚いた。アスマの部隊が半分の脱落者を出していたとは。カカシの驚いた様子にアスマは苦笑した。
「お前ぇの部隊は今回ほとんど無傷だったな...。ま、そうか。そうだな、お前んとこにはイルカがいたからな...」
アスマの口からイルカの名が出たことに驚きつつ、アスマの言葉の意味を分かりかねたカカシは、思わず尋ねていた。
「イルカがいたからって...何それ?」
「俺ぁ何度か戦場でそいつと一緒になってるんだけどな、不思議な奴だぜ。どんなに悲壮な状況でも挫けねえ。あいつを見てるとよ、皆心が強くなんのよ。カカシは知らねえだろうが、正規部隊では結構有名な話だぜ?イルカが就いた任務に全滅は無いってな。」
険しかったアスマの顔が、少しだけ柔らかく綻んだ。アスマの言葉にカカシはまた例えようの無い苛立ちを胸に感じた。
「そお?あの人、命令違反ばかりでとんだお荷物だったよ?あの人の善人ぶった行動に、部隊の皆が動揺しちゃってさ。心が強くなるどころか、かえって不安を煽って脆弱にしてる感じ。忍として失格だよ。砂漠で脱落した人、勝手に背負っちゃうしさ。それで自分が倒れてたんだから世話無いよ。」
アスマはカカシの愚痴を面白そうに聞いていた。
「そうだな。お前や俺の目から見れば、イルカは駄目な奴だ。忍の目から見たら、な。だがな、他の奴らは違うんだよ。他の奴らは俺達と違って、人の世界に生きてる。俺達が無くしちまったものを...分からなくなっちまったものを大切なものとして生きている。だからイルカの優しさや強さは皆を励ますのよ。それが大切なものだと、自分達が守るべきものだとイルカが思い出させてくれるからな。お前は何でも忍としての目でしか物事の価値を判断できねえ。世の中にはな、別の見方もあるんだよ。お前の見方が間違っているとは言わねえが、全てじゃ無え。」
まあ、お前の知らない世界の話だ。分からなくても仕方がねえ。
アスマの言葉にカカシは衝撃を受けた。何故そんなに衝撃を受けたのかは分からないのに、身体が小刻みに震える。カカシは思わずギュッと右手で左胸の上の衣服を握り締めていた。その場所が痛くて。まるで鋭利な刃物で切り刻まれたかのように痛くて。カカシは何が何だか分からなくなった。そうだ、全く分からない。俺はイルカのことが全く理解できなかった。俺と全然違うイルカ。それも当然だ、イルカは違う世界の人だったのだから。俺の知らない世界、そこは俺とは交わらない世界なのだ。自分は分かっていた。だから。だから、イルカに。
何を言っているんだ?俺は。
混乱しながら、これ以上考えてはいけない、とカカシは思った。これ以上考えたら、考えてしまったら。知りたくない答えを知ってしまう。
駄目だ、考えては駄目だ、とカカシは思わず手のひらで自分の顔を覆った。
「カカシ?どうした?」アスマが訝しげな声を上げる。
「....苛々するんだよねぇ。」カカシが口にしたその言葉は、アスマに向けたものというよりも、自分自身に言い含めるような調子だった。
「あの人の、呑気な面を見てるとね、苛々する。いつもへらへらして。」
踏み躙ってやりたいんだよね。あの笑顔を。歪めてやりたい。
自分の考えがどんなに甘いものなのか、どんなに偽善に満ちているものなのか、思い知らせてやりたい。
吐き捨てるようなカカシの言葉にアスマは肩を竦めた。そこには非難も同調もなかった。アスマは本当に仕方の無いことだと思っているのであろう。
だがカカシは気がついてしまった。
いや、本当はずっと前から気がついていたのだ。
それなのに気がつかない振りをしていた。
踏み躙っても変わらないイルカ。
それに安堵する自分と。
失望する自分に。
どうして安堵するのか。
どうして失望するのか。
気がついてしまったら。
お終いだから。
続く