(5)


しかし、イルカは音を上げなかった。決して。
体を少し前倒しにして、一歩一歩、ふらつく足元を踏ん張るようにして前に進む。
イルカは足元しか見ていなかった。まだ霞んで見えもしない砂漠の果てを思うより、自分の足先に、より確かな希望を見出しているかのようだった。玉の汗がイルカの額から頬を伝っては地面の上にポタポタと落ち、乾いた砂礫に吸いこまれては消えていく。その滴の儚さが、イルカの努力までもが儚く潰えるのではないかと皆を不安にさせた。

もう限界だろうに。

カカシはイルカのしぶとさに内心感嘆の声を上げながら、もう一方で消し去ることのできない暗い感情に苛立ちを覚える。
イルカの何がカカシをそんなに苛立たせるのか、カカシ自身にもわからなかった。
途中見かねてイルカに水筒を差し出す者もあったが、カカシはそれを制した。

「自分の水の確保は自分でするんだから。あんた、それで大丈夫なの?」保たなくても知らないよ。

カカシの言葉にイルカを助けようとする手は鈍った。
それで当然だとカカシは思った。誰だって自分の身の方が可愛いのだから。
イルカの背の少年は時々意識を戻しては、すみません、とイルカに謝った。すみませんとは言うが、置いていってくれとは言わない。すみませんとだけ繰り返すその言葉は、置いていかないでくれ、とイルカを脅迫しているようにカカシには思えた。

なんて勝手な。

少年の生き汚さにカカシは胸がむかむかした。
役立たずの癖に置いて行くなとは何様のつもりだ。どうせ大した命でもないくせに。

いつの間にかカカシは、もし少年とイルカの立場が逆だったら、と想像していた。
もしイルカがあの少年だったら。

イルカならば、そんなこと言わない。
すみません、とは言わず、降ろしてくれと懇願するだろう。
いいや、それ以前に。
もしイルカが少年だったら、あの場で置き去りにされることを望む。
置いていってくれと言う。
絶対に。イルカならば。

そこまで考えて、カカシは自分の感情が例え様も無いほど高ぶるのを感じた。迫り上がってくる何かがカカシの胸を塞ぎ、呼吸をするのも苦しいほどだった。狂気とは別の自分の押さえがきかない感情に、カカシは恐怖した。その感情の奔流に、いつか自分が飲み込まれてしまうような気がした。



その後もイルカは遅れることなく歩き続け、夜明けの太陽が東の地平線に顔を出す頃、部隊は予定通りに砂漠を通過した。
そしてそのまま野営地点を目指す。昼には着く予定の休息地を前にして、もう体力の温存は不要だとばかりに、余力のある者がこぞってイルカを助けた。少年はイルカの背から、その後野営地に着くまで、何人もの背に担がれ運ばれた。カカシがそれを窘めると、「部隊に迷惑はかけません。自分の責任の範囲でやります。」と皆一様にイルカみたいなことを言う。カカシは面倒臭くなって放っておいた。
部隊の誰かが、お前もおぶってやろうか、フラフラじゃないか、とイルカに声をかけるのが聞こえた。
カカシは思わず振り向いた。
イルカが困ったように鼻の上を掻きながら、大きく顔を綻ばすのが見えた。

「ありがとうな...でも、俺は大丈夫だから。」

嘘吐き。カカシは面の下で小さく呟いていた。

本当は限界の癖に。
ああ、でも。
やはりイルカは言わなかった。
背負ってくれとは言わなかった。

想像した通りに。


その事実に何故か安心している自分に気付き、カカシの苛立ちは増した。
苛立つのなら、放っておけばいい。カカシはいつもそうしていた。
自分が嫌だと思う相手とは係わり合いにならなかった。
イルカのことも放っておけばいいのだ。分かっているのに。

踏み躙ってやりたい。
あんな呑気に笑っていられないくらい。

徹底的に叩き伏せたい気持ちがそれに勝る。
何かを否定したがっていた。カカシを苛立たせるイルカの何かを。
自分の中の何かを。



続く