(12)

予め決めておいた、幾つかある合流地点のうちの第一地点には仲間の姿は無かった。その時カカシはあまり落胆しなかった。もう少し先を行っているだろうことは予測していたからだ。ただ、足元に転がる味方のものとも敵のものとも知れぬ肉塊を認めて、カカシは眉を顰めた。ここまで敵は追って来たかと思うと同時にイルカのことが気に懸かった。だが、そんな状況下においてもカカシは微塵も疑うことは無かった。

イルカは生きている。絶対に。

カカシは信じていた。信じていたかった。変わらず全力疾走を続けるカカシの足に迷いは無かった。
そしてようやく見えてきた第二の地点にも人影が無いことを確認すると、カカシは舌打ちした。視界が翳み始めていた。もたないかもしれないという懸念がカカシの焦燥を駆り立てる。第三地点までへの切り立つ岩山の急勾配な獣道を登りながら、カカシの足は遂に失速した。一度失速し始めた足が急速に力強さを失い、緩慢なものへと変化する。それでもカカシは懸命に足を動かした。今はもう歩くようになってしまった足を、前へ前へと。

もう少しだ、とカカシは思った。もう少しで第三地点だ。

そう思った瞬間、限界を超えてガクガクと震える足が、カカシを支えきれなくなった。突然下半身からスーと力が抜けて行く感じがしたかと思うと、カカシはその場に前のめりに倒れ込んでいた。強かに膝頭を地面に打ちつけながら、咄嗟に手を突っぱって崩れる体を辛うじて支える。

ここまでか。

カカシは荒い息を吐きながら、傍の木の根元まで這うように移動した。そしてその幹に凭れかかるようにして座ると、どっと疲労の波が押し寄せてきた。とても、眠かった。眠ってしまったらお終いだと思うのに、その誘惑に抗えないほどだった。

結局辿り着けなかったな。

カカシはぼんやりと思った。ほんのささやかな祈りさえ許されなかった。イルカの祈りさえ。何もないまま、何も持たないまま死んでいくのだ。その命に何の意味も見出せないままに、ガラクタのように。それを今まで疑問に思ったことはなかった。哀しいと思ったことも。それが自分の世界では当たり前のことだったから、何も感じることはなかった。それなのに、今の俺はどうだ。哀しい、と思っている。こんな俺を自分自身で憐れんでいる。ふと、かつてのアスマの言葉をカカシは思い出していた。

そんな自分が憐れに思えたからよ。

そうか、アスマの言っていた事はそういうことか、とようやくカカシは理解した。死の間際になって、やっと分かった。今の俺ならば境界を飛越えていけるだろうかとカカシは思った。アスマのように、別の世界へ。その境界を越えて。

イルカのいる世界へ。
夢見るだけじゃなくて。


今更もう遅いというのに。

カカシの伏せた目蓋を込み上げる熱いものが押し上げて、長い睫を濡らしては頬を流れ落ちた。
カカシが全てを諦めたその時、近付く足音と共にその声は突然降って来た。

「隊...長...?」

その声にカカシの胸は例え様もなく震えた。
目蓋を開かなくても、それが誰だか分かった。間違えるはずもない。
最後の最後で間に合ったのだ。


どうか、祈りを捧げて。
俺の為に。


「隊長、しっかりして下さい!」

イルカは慌ててカカシの傍に駆け寄ると、血の滴るその腹部を見て息を飲んだ。すぐさま医療部が携帯している救急道具をまさぐる。

「もう少し先で皆休んでます。今、応急処置をしますから。」
俺、薬草を探しに来てたんです、来て良かった、そんな他愛のないことを言いながらイルカが消毒の準備をする。

カカシは弱々しい手つきで、それを突っ撥ねた。

「放って、おいて。」

カカシの言葉に、瞬間イルカはポカンとした。

「手当てしてもしなくても...何の道...一緒でしょ?どうせ、俺はここで切り捨て...られる。この...傷では、俺はあんた達について行けないし...。」

息苦しさに途切れ途切れになる言葉を、カカシは必死に寄せ集める。

「だから、放っておいて。俺はもう、役に立たない。こんな命、いつ捨てちゃってもいいんだから...。丁度今、捨てようと思ってたとこ。だから...邪魔、しないで。」

それで俺が死んだら。遺体の処理をあんたがやって。あんたが俺を灰にして。

カカシがそう続けようとした時、イルカが怒ったような憮然とした顔をして、強引に傷の処置を始めた。突然消毒薬に浸されたガーゼを傷口に押し当てられて、カカシは思わず呻き声を上げた。イルカはそんなカカシの様子に構うことなく、手際良く処置を施していく。カカシは慌ててそれを止めようとしたが、それを止めるだけの力が今のカカシには残っていなかった。しかもイルカが麻酔もなしにカカシの傷口を縫合し始めたので、カカシも喋っているどころではなくなってしまった。無様な叫びを上げないようにと我慢するので精一杯だ。
イルカは処置の手を休めないまま、そんなカカシに不敵な笑顔を作って見せた。

「ここで隊長が切り捨てられるとしたら...隊長自身ももう諦めて自分を捨ててるんだったら...それじゃあ、俺があんたを拾います。捨ててあるなら拾っても構わないでしょう?」

今度はカカシがポカンとする番だった。今なんて言った?この人。またカカシの理解できないような、おかしなことを言っている。自分で言っていることの意味が、本当に分かっているのだろうか。まじまじとイルカを見つめるカカシの瞳と、イルカの真っ直ぐな瞳がかち合う。

「それであんたを一番大切な宝物にします。本当は宝物は大事に箱に仕舞っておく方がいいんでしょうけど、あんた仕舞うにはでかすぎだから。自分で大事にしてください。仕方ないでしょう?あんたは俺の目の届く範囲に始終いるわけじゃないし。勝手に傷とかつけたら承知しませんよ?傷つけたら、責任取って、ちゃんと手当てしてください。もう、俺のなんですから。」

イルカはそう言いながら、縫合の終った傷跡をくるくると包帯で巻いていく。
カカシは俯いて、イルカの言葉を心の中で反芻していた。

俺を拾う、なんて。そんな簡単に。
一番大切な宝物にする、なんて。自分が何を拾ったか、分かっちゃいないくせに。
馬鹿だ、イルカは。馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、これほどとは。
あんたの拾ったものは、とても厄介でとても手には負えないものだと分かっていない。本当に、馬鹿だ。
そんな簡単に。あんたの方から、手を伸ばしてくれるなんて。
そんな簡単に。俺の欲しかったものをくれるなんて。
どうして、俺なんかに。

「あんた、馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど、本当に馬鹿だねぇ。」

俯いたまま、カカシは笑っていた。可笑しくて仕方がなかった。さっきまでの俺の悲壮な決意をどうしてくれるんだ、と叫びたいほどだった。

「自分が何を拾ったのか、分かっちゃいない。よく確かめないで拾うもんじゃないよ。捨て置かれてるには理由があるんだから。そんなガラクタを宝物にするなんて、あんたおかしいよ。」

そうイルカに忠告しながら、カカシはもう決めていた。
境界の向こうから、イルカが手を伸ばしてくれた。
その手を取って、俺は飛越えていこう。
怖れずに。
俺を照らす、この確かな明りを道標にして。

カカシの言葉にイルカはさも心外だという顔をして息巻いた。

「あんたこそ馬鹿だ。他の人にとってガラクタでも、俺にとっては価値あるものなんだ!俺に言わせれば、その真価も分からず捨て置く奴が馬鹿なんだ!だから今日俺は得した気分だ、いいものを拾ったんだから。」

カカシは肩を揺らしてクククと笑った。

「そこが馬鹿だって言ってるんだよ...」

でも仕方無い。あんたが拾うって言ったんだから。あんたが拾っちゃったんだから。後悔しても、俺は知らない。

笑いながらもカカシは泣きたいような切ないような気持ちで胸が一杯だった。

笑ってばかりいるカカシにイルカは嫌な顔をしながらも、当然のように背中を差し出した。

「俺が背負っていきます。」

カカシはイルカの言葉に素直に従った。だってもう自分はイルカのものだから。断る権利は無いのだ。
イルカはカカシを背負いながら、短く言った。

「2回目です。」

は?何が?イルカの背中でカカシが首を傾げると、イルカは微かに笑っているようだった。

「隊長の、素顔を見るのは。」

イルカの言葉の意味を悟ってカカシはハッとした。イルカは肩越しに力強く宣言した。

「今度は俺があんたを助けます。」




続く