カカシ日記

(26〜30)




○月某日。
突然紅が体調不良で上忍の任務を休んだ。
代わりにその任務が宛がわれそうになって、俺は焦った。
だって里外の任務だ〜よ?しかも一週間。
この前瀕死の重傷を負って帰って来て、その傷が癒えたばかりなのに…
それにそれに…ようやくイルカ先生と仲直りしたばかりなのに。一週間も里外なんて。
しかも何気にSランクだし!
「なんで俺なの?俺、この前上忍の個人任務を請け負ったばかりなのに…そうだ、髯は?
恋人の尻拭いはアスマにやらせればいいいじゃない?」
ぷうと頬を膨らませ、ぶうぶうと三代目に抗議をすれば、
「アスマも食中毒で倒れておる…上忍は慢性人手不足じゃというのに、あいつらは健康管理もできておらん…!」
三代目はゆゆしき事態じゃと愁眉の面持ちで、煙管をぷかぷかさせた。

食中毒…!?あの鉄壁の胃袋を誇るアスマがァ…!?
上忍の忘年会で皆が河豚にあたった時、ひとりだけぴんぴんしてたアスマが…!?

「髯が食中毒なんて…な、なにか敵の新たな細菌攻撃じゃないですか?まさか紅が体調不良なのも…!?」
慌てる俺に三代目が頷きながら、声を潜めて言った。
「そのまさかじゃ…実はそっちの方向でも調べさせておる…」
三代目の神妙な様子に俺はゴクリと喉を鳴らした。

上忍ばかりを狙うなんて…大蛇丸の陰謀か何かなんだろうか…
ああ、里にそんな不穏な影が差す中、イルカ先生を放って一週間も任務に出るなんて…心配だ〜よ…

俺は心底気が進まなかったが、他に任務に適した上忍がいないのだから仕方がない。

ちゃっちゃと終えて、ちゃっちゃと帰ってきますからね…!

受付のイルカ先生に、出発前に事情を説明しに行くと、
「紅先生とアスマ先生が・・・・」とイルカ先生も二人が倒れた事に酷く驚いた顔をした。
うんうん、イルカ先生は優しいからあんな二人でも、すっごく心配なんだ〜よね?心が痛んじゃうんだよね?
そんなところもすごく好きです、イルカ先生…!あ〜でもイルカ先生が浮かない顔をするのは嫌だなあ…なんて構えていたら、
予想に反して、イルカ先生は堪えきれないとばかりに突然くっと笑い声を上げた。
「くっくっ…あーっはっはっはっ…!紅先生食べたんだ…まぁ、『すごく美味しかったですよ』って俺が会心の笑顔で太鼓判押したもんなあ…アスマ先生には悪かったけど…くくっ、」
目尻に涙を浮かべ肩を震わせ笑うイルカ先生に、俺は面食らった。

何?イルカ先生は何の事を言ってるの…?

目を白黒させていると、イルカ先生が目尻の涙を拭いながら言った。
「…これに懲りて、紅先生も悪ふざけをしなくなるでしょうよ。」
「……はァ、」
え?紅何か悪ふざけしてたの?イルカ先生に?話が見えない。
きょとんとする俺に、イルカ先生はふっと優しく表情をほころばせた。

あ。見た事もないすごく、いい顔…。

俺はイルカ先生の表情にどきんとした。そのままドキドキと胸が早い鼓動を刻む。
なんだか胸が痛いような、熱いような、そんな感じになった。ぼうっとする俺にイルカ先生は言った。
「任務、気をつけて下さい。無事帰って来たら…また『アーン』してあげますから。」
そんな風に優しく言われた事がなかったので、俺は舞い上がってしまった。

ハイ、ハイハイ!イルカ先生っ…俺、頑張ります。頑張っちゃいます…!!!!

三日で帰って来ようと俺は心に誓った。イルカ先生の為って言うよりも俺の為に。
一週間も離れてたら、きっと廃人決定。駄目になっちゃう〜よ。




○月某日。
今日の天気は雨。
Sランクといいつつ、任務は簡単なもんだった。
男禁制の尼寺で匿っている国主のご落胤を連れ出して殺害して、その首を国主に届けるだけ。
国主は冬の間は雪を避けて、海岸沿いの温暖な冬宮で過ごす。そこへの往復にかかる日数を入れて一週間というわけだ。
跡継ぎ問題は国の行方を左右する事だけに、Sランク任務に振り分けられるのが普通だ。
難易度ではなく極秘性の問題で。
任務自体は、他愛もない。
女体変化して忍び込み、眠る五、六歳の子供を腕にそっと抱き込んで…それで…

なんでかな。雨はさっき止んだ筈なのに。
何かが俺を濡らしてる。

それは子供の涙のような気もするし、首を切り落とした時に一瞬噴出した血飛沫のような気もする。
子供の涙も血飛沫も、俺には掛かっていなかったのに。

おかしいなぁ。

でも確かにどこかが濡れている。
しとしとと雨の降るような音が、どこからか聞こえていた。
しかもどこも怪我してない筈なのに、どこかが痛い気がするんだ〜よ。

おかしいなぁ…

早くイルカ先生に会いたいなぁ…




○月某日。
一週間かかるところを、俺は五日で帰って来た。
早く帰りたくて、全速力で全ての道程を駆け抜けた。木の葉に着いたのは夜半過ぎだった。
すぐにイルカ先生の顔が見たかったけど、こんな時間じゃイルカ先生の家の扉を叩けない。
もう寝てるかもしれないし…メーワクとか、そーゆー事もちゃんと考えたりする。
俺は結構イルカ先生思いだと思う。
イルカ先生の明日の仕事に差し支えないように、負担をかけないように、すごく気を遣っている。
だって嫌われたくないから。
ほんとは夜だけじゃなく、もっと一日中側にいて、朝も昼も何処ででも「アーン」ってして欲しい。
だけどそれは幾らなんでも、恋人じゃないと駄目だろうと分かってる。…分かってるんだ〜よ。だから我慢してるわけ。
まだ…恋人じゃないし。
ナルトみたいな子供だったら、何でも強請れるんだろうけど。
大人ってツライ…分別のある自分が恨めしい……
そう思いながらも、真っ直ぐ自分の家に帰る気にはなれなくて、俺は久し振りに自主的に回遊魚になる事に決めた。
扉を叩くのはメーワクだけど、イルカ先生の家の周りをぐるぐる回るくらいは別に良いよね?メーワクじゃないよね?
俺はイルカ先生の家へ足を向けながら、頬に触れる冷たい感触にふと空を仰ぎ見た。
寒い寒いと思っていたら、いつの間にか雪が降っていた。
本当に今年の冬は寒いなあ。イルカ先生、家の灯油を切らしてないかな…?
こんなに冷え込んでるんだから、流石にもう薄着はやめて、コートの一枚でも羽織ってるよね…
イルカ先生の事ばかりを考えながら歩いていると、それが神様に伝わったのか、曲がり角を曲がると、俺のちょっと前を歩くイルカ先生の後姿があった。
俺は吃驚して目を見張ったね!
だってイルカ先生ときたら、相も変わらずこんな寒い日に、いつも通りの薄着だったんだから。
偶然会えた嬉しさよりも先に、心配が立った。
まぁーったく!この前薄着で風邪引いたばかりなのに!!!
コートも引っ掛けず、首にマフラーを巻いただけで、手なんか片方しか手袋をしてなくて…
あっ、そうだ手袋…俺、かたっぽ拾ったまま、イルカ先生に返してない…
俺はハッと思い出して、慌ててポケットを弄った。
入れっぱなしになっていた橙色の手袋。
今すぐ返そう。そうすればイルカ先生もちょっとはあったかくなる筈…
そう思うのに、俺はどうしてだかイルカ先生に声もかけられなかった。
あんなに会いたいと思っていたのに、空から舞い落ちる雪の向こうに見えるイルカ先生の姿はまっしろに隠れて見えて。
イルカ先生は近くに見えるけど、実はずっと遠く離れた場所にいるんじゃないかとか、そんな事を考えてぼんやりと立ち尽くしたままだった。
イルカ先生の背中が見えなくなるまで、ずっと。

今日は回遊魚にも、なれなかった。




○月某日。
何にもやる気がせずダルダル。
任務から帰ってからずっと家に篭っている。
ぼや〜っとベッドの上に転がりながら、七班の奴等はどうしてるかな〜とか、ちょっと気になる。
いつもだったら俺の家まで子供達が押しかけて来て、
「はやく起きて来て、俺達の修行を見てくれってばよ!」
「カカシ先生、任務どうするの?私達だけで行っちゃっていいんですか?」
「………ったく、世話が焼ける…」
扉をどんどんと叩いて、煩く催促するのに。
不思議なほど静かだ。誰も来ない。

もう何日経ったのかなあ…

なんだか日付の感覚すらなかった。
イルカ先生にも会っていない。任務帰りにイルカ先生の後姿を見たままだ。
もう任務も終わったのに。あんなに会いたかったのに。
今でも、会いたいのに。すごくすごく会いたいのに。
どうしてだか会いにいけない。

…会いたいのになァ…

そう思っていたら、どんどんと喧しく扉を叩く音が響いた。
わ、やっぱりあいつら来たのかと一瞬そう思ったが、扉の向こうの気配が違う。
誰の気配かなんてすぐに分かった。俺が読み間違える筈のない、唯一の気配。
だけど、そんなまさか…
ぼやっとしている間に扉を叩く音はどんどん激しくなり、
「いい加減開けやがれ!!中にいるのは分かってるんだからな!!!」
借金の取り立てめいたドスの利いた叫び声がしたかと思うと、どかっと扉が蹴破られた。
鍵の壊れた扉の向こうにはイルカ先生が立っていた。
「あんた、なんで開けないんだ…!?俺だって分かっていたでしょう。ちょっとお邪魔しますよ、」
イルカ先生は憤懣やるかたなしといった様子で、家主の俺の了承も得ずに、ずかずかと家の中に入ってきた。
手には何か紙袋を持っている。がさがさとその口を開けると、ぷんと甘酸っぱい匂いが漂う。

あ、りんご…

ぼやっとしていた俺は、その匂いになんだかじわっとなった。

ひょっとしてイルカ先生は俺にりんごを「アーン」する為に、ここまで来てくれたのかな…?

そう考えた瞬間にぐーっと盛大に腹が鳴った。
そういえば、食事したのっていつだっけ?最後に何か口にしたのは…いつ?
少しだけ羞恥に顔を赤くする俺に、イルカ先生は仏頂面で言った。
「カカシ先生、今あんたは休暇扱いになってます。まだもう暫く休んでいいって三代目から言伝を頼まれました…」
「三代目から…」
「それからこのりんごは紅先生からです。
『カカシ向きの仕事じゃないのに、火影様もカカシも馬ッ鹿みたい…超過勤務は組合に密告っといた方がいいわよ』って伝えてくれって…
ブガロンチョの恨みはチャラにしてくれるそうですよ。…案外いい人なんですね…」
「紅が…」
俺はイルカ先生の話に相槌を打ちながらも、その実殆ど聞いていなかった。
だって目の前のイルカ先生が話をしながらも、するするとりんごの皮を剥いていたからだ。
イルカ先生はりんごをくし型に切ると、フォークにグサッとさして、当たり前のように俺に向って言った。いつものように憮然とした顔で。
「カカシ先生、はい、あーん。」

……『あーん』ってイルカ先生…だけど俺……俺は……

嬉しいのに何処か痛くて。俺はイルカ先生の顔をまともに見ていられなかった。
ずっと顔を俯けていたら、イルカ先生は溜息をつきながら、
「……俺が食わせたいんだ!食わないなら帰るぞ…!」
俺の顔をがっしと上向かせて、無理矢理口の中にりんごを押し込んだ。
イルカ先生はぎゅうぎゅう俺の口にりんごを押し込めながら、
「任務ご苦労様でした…」
ふわっと優しく笑った。
そうしたら俺の心もなんだかふわっと軽くなって。
胸の辺りがあったかくなったような気がした。

イルカ先生 イルカ先生 イルカ先生…

よく分からないまま、心の中で何回もイルカ先生の名前を呼んだ。何度でも呼びたい気分だった。
俺は口を塞ぐりんごを一生懸命しゃくしゃく噛んで飲み込むと、イルカ先生に向って言った。
「ただいま帰りました、イルカ先生…」
おかしいよね、帰って来たのは何日か前なのに。
ようやく帰って来たという気がした。




○月某日。
久々に上忍待機所に顔を出したら、待ち構えていた紅に捕まった。
「何よ、元気そうじゃない。火影様がすごく心配してたから、どんな悲惨な事になってるのかと思ったけど。」
腕組してフンと偉そうにする紅とは対照的に、髯は煙草を吹かしながらも、
「…で、お前、今回は本当にもう大丈夫なんだろうな…?」
問いかける声が何処か気遣わしげだ。
髯の言いたい事は分かってる。
どーしてかねえ、よく分からないけど、極稀に俺は手足がひんやりと凍えたようになって、動かせなくなってしまう事があるのだ。
手足だけじゃない。そのうち体も凍えてきて、瞬きすら億劫になってきて…最後には人の声が聞こえなくなったり、目が見えなくなったりする。
そんな生きる屍のような状態で部屋に転がっているのを、過去アスマに二度救出された。俺は前科持ちなのだ。
暗部が長過ぎたと三代目はしきりに俺に詫びていたけど、どーして三代目が俺に頭を下げたのか、今でもよく分からない。
三代目は俺に謝るような事は何もないと思うんだけどなあ…
俺は髯に向かってグッと親指を立てて見せた。
「も、ほんとに、だいじょ〜ぶだ〜よ!それよりアスマはどうなの?」
食中毒みたいだったけど、と俺が続けると、アスマが微妙な顔をした。何故か同じように紅も微妙な顔つきになった。
なんだろ?なんかヘンな事訊いちゃった…?
ぷかぷかと煙草の煙で輪を作るアスマの傍らで、紅がハアアアーーーと盛大に溜息をつきながら言った。
「顔に似合わず案外強かだけど…あんたみたいなぼんやりにはあれくらいで丁度いいと思うわ…」
「な、何?いきなり何の話…?」
食中毒の話をしていたのにと俺が首を傾げると、紅が急に顔を顰めた。
「だから食中毒の話。あんたをあんまりからかうなって、食中毒で寝込んでいる枕元で散々説教されて、酷い目にあったわよ。」
「ふ、ふーん…?」
分かったように相槌を打ちながらも、俺の頭の中は疑問符でいっぱいだった。
えーと、紅は何の話をしてるんだろ…?
話が全く見えない。
益々首を傾げる俺の体もまた、釣られて斜めに傾いでいた。
「…絶対に上手くいかないと思ってたけど…あんたの粘り勝ちかもね…あんた結構大事にされてんじゃない。」
紅は俺に向かいしみしみと感慨深げに言いながら、最後に体を寄せてこそっと耳打ちした。

私のお見舞いの品はね、りんごのほうがおまけ。借りは返したわよ。

紅の謎の言葉に、遂に俺は首を傾げ過ぎて倒れ込んでしまった。
りんごの他にお見舞いの品なんてあったかな?
「まーったく!男なんてどいつもこいつも弱っちいんだから!しっかりしなさいよぉ!」
ばーんと紅に思いっきり背中を叩かれて、俺は何がなんだか分からないながらも頷いていた。
…多分叩かれたところに手形がついてるだろうなぁ…
やっぱりアスマは尻に敷かれてるな、これは。
俺はじんじんと痛む背中に呻きながら、再び認識を改めた。