カカシ日記

(11〜15)

○月某日。
風邪を引いた。
毎日毎日、イルカ先生んちの周りをぐるぐるぐるぐる回遊魚のように回ってた所為だろうか。
風邪を引くなんて、生まれて初めてかもしれない。
頭がぼうっとして身体がだるくて、ごほんと咳き込むと、つきんと頭が割れそうに痛む。
イルカ先生も苦しそうにハアハアしてたけど、本当に苦しいもんなんだ〜ね…実感。
ひとりベッドに転がってハアハアしてると、ひょっとしてこのまま死んじゃうんじゃ…と心細くなった。
「酒でもカッ食らって一眠りすれば治っちまうよ、」と野蛮な事を言いながら一升瓶片手に髯がやって来た。
熊と一緒にしないで欲しい。俺は繊細なんだから。
「何とかは風邪引かないって言うのにねえ、」
髯についてきた紅は他所んちの煎餅の缶を勝手に開けて、ばりばり食べながらそんな事を言った。
「『何とか』って何よ?」
俺が尋ねると、
「『男前』は風邪引かないって、よく言うじゃない?知らない?」
うふふと笑いながら紅がそう答えた。
そっかー『男前』かー。男前って風邪引かないんだ…へえ〜うん、そりゃ納得。
道理で俺、風邪引いた事がないはずだ〜よ。
「紅って、なかなかいい事言うねえ〜」
俺がそう言うと、何故か髯が紅の頭にごちんと拳骨を落とした。
髯と紅が帰ると、今度はサクラが姿を現した。
サクラは、お母さんが持っていけって、とおじやの入った土鍋を手にしていた。
「食べられるようだったら、あっためて食べてね先生。」
ありがとねサクラ。
うんうん、お前はきっと情に厚い、良いくの一になるぞ。
苦しい呼吸にハアハア言いながらもニコニコしていると、サクラは急に神妙な顔をして言った。
「あのね、カカシ先生。今日はひとつアドバイスしてあげるわ。もしもイルカ先生がお見舞いに来たら…」
「えっ、イルカ先生お見舞いに来るの!?」
俺は吃驚して飛び起きてしまった。
いてて、頭がつきんとする。
「違うわよ、そんなの私も知らないけど…もしも、の話よ?
もしも万が一お見舞いに来たら、カカシ先生そうやって笑ってるだけにしといた方がいいわよ。絶対口聞いちゃ駄目。」
ええーっ!?なんで?どうして?
そんなアドバイス、ハイ却下〜と軽く流す俺に、サクラは強い口調で言った。
「私の言う通りにしたら、絶対上手く行くんだから。」
回遊魚から、また人間に昇格できるわよと諭されて、俺はどきっとした。
あれ〜?なんかサクラにばれてる…?まさか、ね…
俺はその気迫に思わず押されて頷いてしまったが、結局今日イルカ先生は来なかった。
そうだ〜よね…来る筈ないよね…怒ってるんだもんね…
『もしも万が一』の話だって、サクラも言ってたし…
でも…なんかちょっとやっぱり…期待してたみたい。がっくりきた。
はぁ〜…薬飲んでもう寝よう。




○月某日。
昨日より熱が上がってた。
なんでだろう。ちゃんと薬飲んだのに。
そういえば、昨晩切ない夢を見た。
真夜中ハアハア言いながら、薄っぺらなパジャマ姿でイルカ先生の家の周りをぐるぐる回っている夢だ。
ぐるぐるぐるぐる…足が冷たいなァと思ったら、それもそのはず俺は裸足で。その下の地面は先日積もった雪で白く凍っていた。
幾らなんでも凍結した道を裸足で歩くほど粋狂じゃないから、ああ、これは夢なんだなあって思った。
熱を出して寝込んでいても、イルカ先生の事が気になって、夢にまで見ちゃってるんだ…って。
夢の中で見上げたイルカ先生の家の窓は、カーテン越しにイルカ先生の影を映してたけど、やっぱり窓が開く事はなくて。
切ないなあ、と俺は思った。
夢なんだから、もうちょっといい目見せてよ。
でもおかしいんだよなあ…今朝目覚めたら、まるでほんとに雪の上を歩いたように、足が一夜にしていきなりしもやけになってるのよ。かゆいったらない。
なんか玄関からぺたぺた汚れた足跡がついてるし。
わけが分からない〜よ。
よくよく考えなくちゃいけない問題のような気もするけど、考えるのも億劫なくらい頭が重い。
寝ようと思っても、悪寒がして苦しくて眠ってられない。
寒いけど熱い。熱いけど寒い。苦しい〜よ…
ほんとにこのまま死んだらどうしよう。
そう思ってたら、どんどんと扉を叩く音がした。
誰か来た。でももうそこまで行く気力がなかった。放っておいたら、どりゃあ!とばかりにいきなり扉を蹴破られた。
驚いて玄関に目を遣って、更に驚いた。
だって、そこにはイルカ先生がりんごを抱えて憮然と立ってたんだもん!
イルカ先生、ひょっとして俺のお見舞いに…!?と喜んだのも束の間、
「熱がある時まで俺の家をぐるぐる回る奴があるか!あんた何やってんだ?」
開口一番、いきなり怒られた。
うわあ、どうしようと俺はオロオロした。怒ってる。怒ってるよイルカ先生。
どうしてだか知らないけど、怒ってる〜よ!!!
なんて答えたらいいんだろ。これ以上イルカ先生を怒らせたくないよ…
焦る俺の頭にその時サクラの言葉が浮んだ。
『カカシ先生そうやって笑ってるだけにしといた方がいいわよ。絶対口聞いちゃ駄目。私の言う通りにしたら、絶対上手く行くんだから。』
よし!信じたぞサクラ…!
一回り以上年下の子供の言葉に俺は縋った。俺はただ黙ってニコニコ笑顔を浮かべた。
イルカ先生は変わらず憮然とした表情を浮べている。
ウッ、本当にこの方法で大丈夫なのか、サクラ…?
少し怯んだが、他にどうしたらいいのか分からないので、とりあえずニコニコ続行。
「俺は…カカシ先生にもうこんな事して欲しくないです。聞いてますか?」
ニコニコニコ。ハイ、聞いてますイルカ先生。
「自分をもっと大切にしてください、こんな体壊すまで…どうかしてますよあんた。」
ニコニコニコ。ハイ、イルカ先生。
「何笑ってるんですか…俺は怒ってるんですよ?」
ハイ。ハイ、イルカ先生。スミマセン。
ほんとに自分でもどうかなあと思うけど、久し振りに向き合うイルカ先生に、なんだか本当に嬉しくなってきて、最初は作りものだった笑顔が本物の笑顔になっていた。イルカ先生は怒ってるって言うのに、笑顔が抑えられない。
怒られてても嬉し〜ですイルカ先生。
変わらずニコニコしていたら、イルカ先生がガックリと肩を落とし、突然ハアーッと深い溜息をついた。
「…りんご。今日は摩り下ろして上げますんで。食えますか…?」
「えっ!」
俺は思わず声を上げてしまってから、慌てて手で口を押さえた。
サクラに喋るなって言われてたのに。
ハイ!ハイハイハイ!!!!勿論です!!!!食います、食わせてください!!!!
俺は手で口を押さえたまま、夢中になって頷いていた。頭を振るごとに頭がズキズキ痛んだが、どうでもよかった。そんな俺にイルカ先生は苦笑した。
その後は夢のようだった。
イルカ先生は摩り下ろしたりんごを「アーン」して、俺に食べさせてくれた。サクラが持ってきてくれた手付かずだったおじやも、あっためなおして同じように、「アーン」て。
それだけじゃなく、俺に薬を飲ませたり、氷枕を取り替えたり、タオルで汗を拭ってくれたり。イルカ先生は色々してくれた。
そんで最後に、「また明日来ます」って言ってくれたんだ〜よ。
信じられない。現実の方がよっぽど夢みたいだ。
もう…怒ってない、よね?苦虫を噛み潰したような顔してたけど…怒ってないよね?
すごいね、サクラは!お前の言う通りにしてよかった〜よ…本当ありがとね…!
いい部下を持ったなあとつくづく思った。




○月某日。
昨日はよく眠れた。夢も見なかった。
熱も少し下がって体が大分楽になった。
イルカ先生は朝出勤前に俺の家に立ち寄り、昼休みもアカデミーを抜け出し様子を見に来てくれた。
それだけじゃなく、仕事が終わった後も。
そして当たり前の様に、「アーン」していろいろなものを食べさせてくれる。
すごく嬉しい。嬉しいったらない。
ニコニコを通り越してデレデレしていたら、
「かなり顔色がよくなってきましたね。この分だと熱も明日には完全に下がってるかもしれないですね。」
体温計の温度を見ながら、イルカ先生がほっとしたようにそんな事を言った。
熱が下がったら、もうイルカ先生はこんな風に俺の面倒見てくれないのかな。そりゃそうだよね。
……風邪が治らなければいいのになァ。




○月某日。
イルカ先生の予想通り、朝起きると熱は完全に下がっていた。
ここは喜ぶところなのにがっかりだ。健康な自分が恨めしい。
出勤際にイルカ先生が立ち寄って、熱を計ってくれた。
俺は布団の中でこっそり体温計の先を指で擦って摩擦した。
勿論温度を上げる為だ。
ちょっと魘される振りなんかして、
「喉が渇きました…すみません、水持ってきてもらっていいですか…」
とイルカ先生を流しに追い遣った隙に、最後の仕上げとばかりにぶんぶんと体温計を振って、目盛が八度を超えた事を確認してから、ササッと腋の下に挟みなおす。
コップを手に戻って来たイルカ先生は、体温計の目盛を見ると、眉間に皺を寄せ首をかしげた。
「昨日より上がってる…おかしいな…」
独り言のような呟きに、疚しい俺はドキッと胸を跳ねさせた。思わず汗が流れる。
するとイルカ先生はその汗を勘違いして、
「こんなに汗をかいて…今から熱が落ちるところなのかな…?」
勝手に納得してウンウンと頷いていた。
「カカシ先生、もうちょっとの辛抱ですよ、」
苦しいでしょうけど、頑張ってください。
布団をかけなおしながら優しい声音でそう言うイルカ先生に、俺は心の中で土下座した。
ごめんね、イルカ先生。
自分でもほんとどうしようもない奴だと思う。
でもあと一日でいいんだ〜よ…できるなら更にもう二〜三日。
欲を言えば、もう一週間くらい。許されるなら、ずっとずっと。
このままでいたいんだ〜よね…




○月某日。
一生懸命体温計を擦ったり振ったりしていたが、
今日はイルカ先生がコップを手に戻ってくるのが早くて、俺は慌ててしまった。
まだ7度までしか上がってない〜よ…!もうちょっと温度を上げないと…
俺は咄嗟にストーブの上の薬缶に体温計を突っ込んでしまった。
すぐにささっと取り出せばいいや位に思っていたのだが、沸騰した薬缶のお湯は瞬く間に体温計の目盛を振り切り、ぱりんと音を立てて砕け散った。体温計の中の水銀とガラス片が、花火のようにぱっとあちこちに四散する。
「何やってんですか…!?口や目に入らなかったですか…?」
血相を変えてイルカ先生は俺に駆け寄った。
ガラス片も危ないが、水銀も有害物質だ。目に入ったら目が潰れる可能性もある。
イルカ先生は俺に掛かったガラスの破片や銀色の粒を、タオルで叩き落とすと、
「なんでこんな危険な事したんですか…?」
怒った顔をして俺を睨みつけた。
どうしよう。また怒らせてしまった。折角上手く行っていたのに。どうしよう…
俺はオロオロとしながらも、またサクラの言葉を思い出し、それを実践した。
返事をしないまま、へらへら笑う。
この前もそれで上手く行った。だから今回もきっと上手くいく。
へらへらへらへら…イルカ先生の様子をちらちら窺いながら…へらへらへらへら。
そうしたら、イルカ先生も急にだんまりになった。
だんまりになって、さっきよりもっともっと怒ったような顔をして。
ばたんと物凄い勢いで扉を閉めて、出て行ってしまった。

あ〜どうしよう。
どうしようサクラ…今回は笑ってちゃ駄目だったみたいだ〜よ…?
それとも、笑いが足りなかったのかな…もっとこう、心から笑うようにしなくちゃ…駄目だったのかな…

イルカ先生が出て行ってしまった後も、俺はへらへら笑っていた。
『私の言う通りにしたら、絶対上手く行くんだから。』
サクラの言葉を信じて、へらへら笑い続けた。
笑ってる場合じゃない気はしていたけど、他にどーしたらいいのか分からなくて。
結局イルカ先生はそのまま戻って来てはくれなかった。
あ〜どうしよう。しんどいなあと思った。