ストーカー100日(3)




く…っ!頑張ったけれど、結局任務遂行に2週間まるまる掛かってしまった……!!

カカシはあまりの焦燥に居ても起ってもいられなかった。自分の留守中にイルカに悪い虫がついてしまったのではないかと気が気でない。
いつもならば口寄せした忍犬に見張らせているのだが、今回は極めて難易度の高い任務だったので、その余力がなかった。

イルカ先生…ああ…っ、まさか俺のいない間に筆おろしとかしていないよね…!?

そうなのだ。イルカは25歳にしてまだ童貞だったのだ。少年の頃からストーカーしているので、それは間違いない。因みにイルカには恋人らしい恋人も居たためしがない。裏でカカシが工作している所為もあったが、イルカが恋人と言い切れるのは右手とこんにゃくくらいだ。

初めての人間の恋人は、俺であって欲しかったのに…!

まだイルカの童貞が喪われたと決まったわけではないのに、カカシは先走る妄想に取り乱していた。

早く…早くイルカ先生に会いたい…!このままではおかしくなりそうだ…!

火影への任務報告を済まさぬうちに、カカシは迷う事無く一路受付所へ向かっていた。極秘任務は受付所を通さないので行く必要はない。目当ては勿論イルカだった。

イルカ先生…どうか無事でいて…!

心の中で強く祈りながら、スパンと勢いよく受付所の扉を開ける。
しかし予想外な事にそこにイルカの姿はなかった。

そ、そんな馬鹿な…今日のこの時間は受付業務と決まっているはず…!

イルカの予定は3ヶ月先まで暗記している。ストーカーとしてのたしなみのようなものだ。それなのに。
「イルカ先生はどうしたの…?シフトの交代があった?」
カカシは受付に座る男に物凄い形相で詰め寄った。すると男は何故か突然沈鬱な顔をした。そのあまりに暗い表情に、

ま、まさかイルカ先生の身に、何か良くない事が…!?

嫌な予感にカカシの心臓がドクドクと早鐘を打つ。
「な、何?イルカ先生、深刻な病気なの…?そ、それとも事故にでもあって大怪我をした…?」
震える声でカカシが尋ねると、男はフルフルと首を横に振った。じゃあ、一体?とカカシが続ける前に男が重い口を開いた。
「イルカは…今日は欠勤です…体の具合が悪いわけではありませんが…ある意味病んでいるというか…。」
もごもごと要領を得ない男の説明に、カカシの不安は募るばかりだった。

イルカ先生に一体何があったんだ…!?

カカシが愕然とする傍らで、受付の男は突然机に突っ伏して、おいおいと男泣きに泣き始めた。
「イ、イルカは本当はあんな奴じゃないんです…本当は…ああ、イルカ…あの日のお前に戻ってくれ…!穢れなきお前に…!」
その言葉にカカシは計り知れない衝撃を受けていた。

け、穢れなきって…や、やっぱりイルカ先生の貞操は…ま、まさか…!?

カカシは堪らずに受付所を飛び出していた。






「イルカ先生…大丈夫ですかっ!?」
カカシはイルカのアパートに着くなり、その扉をどんどんと叩いた。不在ではない証拠に家の中に気配を感じる。
「カ、カカシ先生、今日お帰りだったんですか…?」
すぐに返って来たイルカの声は動揺に震えていた。気配が乱れ捲くっている。

やっぱり怪しい…!

カカシは疑いを深めて更に激しく扉を叩いた。
「ここを開けて下さい…受付でイルカ先生が病気って聞いて…それで俺…っ」
完璧な演技でさも心配そうに訴えれば、家の中のイルカは益々うろたえたようだった。
「あ、あの…そう、そうなんです!酷い風邪で…任務帰りでお疲れのカ、カカシ先生に伝染しちゃいけませんし…っ俺は寝てれば大丈夫ですから、どうか今日は帰って下さい…!」
ゴホンゴホンとわざとらしい咳をして、イルカは一向に扉を開けようとしない。
その様子にカカシはカーッと頭に血が上った。

何か上がられちゃ不味い事があるんだな…!
ま、まさか…気配はしないけど今、間男が来てるんじゃ…!?

カカシは一瞬呼吸困難に陥った。

最悪の事態だ…!
あなたの真新しい筆はもう黒い墨ならぬ、白い液体に汚れてしまったんですね…!

ううっとカカシは呻いて目に涙を滲ませた。まだ決まったわけでもないのに、カカシは早くもホルダーのクナイに手をかけていた。
勿論間男を全力で殺るつもりだ。
イルカの相手が男だと信じて疑わないのは微妙な男心だ。
「イルカ先生、そんなに具合が悪いなら俺が看病してあげます!」
カカシは猫撫で声で言いながらドアノブに手をかけた。鍵ごと強引に扉を開けるつもりだった。本当は蹴破ってしまえば手っ取り早かったが、どうもドアのすぐ側にイルカが立っているようなのだ。怪我をさせるのは本意ではない。
がちゃりとドアノブをまわす音に、ドアの向こうでイルカがはっとした。
「カカシ先生、き、気を遣わないでください…!ありがたいんですけど、俺は一人で寝ていたいんです…!」
イルカも反対側から渾身の力をこめてドアノブを引いているらしく、扉はびくともしない。

ううう…っ!ひ、一人で寝ていたいなんて…
嘘だ…っあんたは今から間男と二人でいちゃいちゃと寝るつもりなんだな…!!
こんな真昼間から…!な、なんて不謹慎でふしだらで…羨ましい…っ!!!!

カカシの頭の中に淫らな妄想がぐるぐると回る。淫らな妄想がぐるぐる…。
胸が痛いはずなのに、考えているうちに何だかはあはあとしてきてしまった。今度は人に言えない場所もツキツキと痛みを訴え始める。
色々な意味で一杯一杯になってきたカカシは死に物狂いで叫んだ。
「イ、イルカ先生…お、俺も具合が悪くなってきました…い、いろんなところが苦しい…っ」
嘘ではない言葉は切実に響いたらしく、
「え…っ!?だ、大丈夫ですか…!?何だか呼吸が乱れてますよ…!?」
イルカのドアノブを押さえる手が一瞬緩んだ。カカシはその瞬間を逃さなかった。
「間男は何処だ…っ!?」
バーンとドアを開け放って叫んだカカシの瞳に映ったのは、ドドドドドという轟音とともに崩れ落ちてくるゴミの山だった。





「だ、大丈夫ですか、カカシ先生…だから帰って下さいって言ったのに…」
ゴミの山に埋もれたカカシを助け出しながら、イルカが情けなさそうに眉尻を下げた。
「それはどういう意味ですか、イルカ先生…?俺がいると何か不味い事でもあるんですか?」
カカシはゴミの中から身を起こすと、頭の上についたバナナの皮をぺいっと床に投げ捨てた。
その瞳は嫉妬と疑心でぎらぎらと異様な光を放っている。
「そ、そんなの一目瞭然でしょう…?誰だってこんなところ、見られたくありません…!恥ずかしいじゃないですか…!」
イルカは顔を俯けて、大きな体をフルフルと震わせた。
その様子はカカシのよくない思い込みに拍車をかけた。

恥ずかしい…恥ずかしいって…!?
イ、イルカ先生、誰が見ても恥ずかしいような事してたんですか!?しちゃったんですかーーー!?

カカシはあまりの衝撃にその場にがくりと膝をついた。目線の高さになったイルカの股間に悲しさと愛しさが綯い交ぜになり、カカシは思わず激情のままにその腰にしがみついた。

悲しい。でも何だかすごく気持ちいい。

大粒の涙をボロボロと零しながら、カカシは息を乱して頬をすりすりとしていた。かなり正気を失っていた。

「カ、カカシ先生どうしたんですか…?そ、そういえば具合が悪いって言ってましたね…何処か苦しいんですか…!?」
イルカは勝手に勘違いして血相を変えた。
「比較的ベッドは無事なんですが…あんなところにカカシ先生を寝かせていいのかな…」
イルカの呟きにカカシは益々涙した。

あんなところって…ベッドがどうかしたんですか…?まさか情事の後が…?

涙の止まらないカカシにイルカは本当に恥ずかしそうに言った。
「俺の家、最近プチゴミ御殿って言われてるんです…足の踏み場もないし異臭もしますけど…休んでいかれますか…?」
家の中が汚くて本当に恥ずかしいです。
その言葉にカカシがピタリと泣くのを止めて、イルカの顔を見上げた。
無精ひげを生やしたイルカが、鼻の上を掻きながらにっこりと微笑んでいた。





「家の中が汚いから…入っちゃ駄目だったの…?それだけ…?」
目をパチパチさせながら呆けた顔で訊くカカシにイルカは困惑した。
「それだけって、それ以外に何があるっていうんですか…?
カカシ先生はこんなに部屋がゴミ塗れでも何とも思わないって言うんですか?」
自分が悪いのにイルカは何故か逆切れ気味だった。

帰ってくれって言ったのに…こんな秘密を暴くような事…酷いよカカシ先生…

心の中では既にカカシに責任転嫁までしてしまっている。
うう、と呻いてイルカが目元に涙を浮べれば、カカシが突然大声で笑い出した。嘲笑されたとイルカは恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にして、プルプルと身を震わせた。

そ、そんなに笑う事ないじゃないか…確かに汚いけど、そんなに笑う事は…!

気色ばみながらも、でも仕方ないよなあ、と内心独り言ちる。カカシももう、笑うしかないのかもしれない。笑ってこの場を誤魔化すしか。

どうやってもフォローできないしな…

イルカは今更ゴミに溢れた異臭漂う部屋の惨状を見回して、体を慄かせた。
収集に間に合わなかった45リットルのゴミ袋が壁に沿って山を作っていた。その袋の中に飛び回っているショウジョウバエの姿が見える。ゴミ袋の谷間にはカップ麺の空容器やら広げっぱなしの新聞やら、脱いだままの服やらが関東ローム層の様に厚い層を作っていた。一番下が二週間前の代物で、一番上が今日の分のゴミだ。一番下のものが黒ずんでいるのは黴が侵食し始めている所為かもしれない。
コンロの上には2週間前に作ったカレーが発酵して異臭を放っていた。一度覗いてみたら黄色い表面が白くなり、透明のぬるぬるした膜がかかっていた。おそろしいことだ。だがそのカレーが行き着く最終形態にも興味を覚えてしまうイルカだ。その時炊いたご飯の残りもジャーの中に入ったままだ。今頃はさぞ色とりどりの黴の花を咲かせていることだろう。
洗濯物も溜めっぱなしで、着るもののストックが心配で2〜3日は同じものを着ている。
そこまで考えて、イルカは重大な事にはたと気付いた。

お、俺も…く、臭いんじゃないかな…?

イルカは思わずすぐさま自分の体をクンクンと嗅いでしまった。そして自分自身でかなりのダメージを受けた。ここ一週間風呂にも入っていなかった。それでも下着を替えていたうちはまだいい。この2、3日は下着さえ替えていなかった。

髭も剃っていないし顔も洗っていない…そういえば今朝、歯を磨いたかなあ…

イルカは慌てて自分の口を押さえながら、はあと試しに息を吹いてみた。

く、くくく、臭い気がする…しかも酒臭い…

昨晩寝際まで飲んでいたからなあ、とイルカは自分の酷い有様に項垂れた。
その傍らで、カカシはまだ笑っていた。笑い過ぎだろうと思ったが、笑い終えた後の言葉が思いつかなくて無理しているのかもしれない。イルカは申し訳ない気持ちになって、ここはもう豪快に流すしかないと全てを諦めた。
幾ら言い訳したところで、ゴミが消えるわけでもない。これではストーカー監視処の話ではないだろう。
「俺って結構だらしないところもあるんですよ、驚きましたか、あっはっはっ!何と言ってもプチゴミ御殿ですからねえ…!」
やけくそ気味にイルカは笑いながら、心の中は沈鬱な気持ちで一杯だった。

もう…カカシ先生に監視はしてもらえないだろうなあ…
こんなんじゃ、ストーカーも逃げるだろうって思うだろうし。
第一こんなゴミ御殿を監視する気にもなれないよな…

どうしてこんな事になってしまったのかとイルカは思う。こんなに自堕落になったのは生まれて初めてだ。

なんかカカシが任務に就いてから、緊張が解けたというか…やる気がなくなったというか…

カカシの視線を感じなくなって、妙に力が抜けたというか、それどころか虚無感に苛まれた。以前はカカシの視線がなくても、普通に日常生活を送っていたのに、それが最早できなくなっていた。

以前はどうやって生活していたんだろう、俺…

思い出そうとしても上手く行かなかった。何もしたくなくなって、なんと仕事さえも欠勤するようになってしまった。それをイルカはどうする事もできなかった。それなのに。

カカシ先生の姿を見たら…何だかまたやる気が出てきたというか…どうしてかな…

考えながら溜息をつく。でももう駄目だ。幾らなんでもこんな姿を見られては、監視云々の話はここで立ち消えになるだろう。

実際、この体たらくに俺に言い寄ってきていた奴も、一人二人と姿を消して、今では回りに誰もいないもんなあ…

まあ、無理もないけどと、自分の人気の高騰と下落の激しさにイルカは苦笑した。

しゃっきりした俺もだらしの無い俺も同じ俺なんだけど…
いいところばかりを見る人は、所詮そんなに俺の事を好きじゃないんだよな…

イルカがそんな事にまで思いを馳せていると、カカシがようやく笑うのを止めて言った。
「確かに多少散らかっていると思うけど…イルカ先生が思っているほど大した事じゃないですよ。
独身の男の家なんて似たり寄ったりです、俺も含めて、ね?俺も手伝うんで、一緒に片付けませんか?」
その変わらぬ優しい笑顔にイルカは胸をどきりとさせた。
「カ、カカシ先生…こんなにだらしない俺を嫌じゃないんですか…?」
「嫌じゃないですよーどうしてそんな風に思うんですか?」
カカシは澄んだ瞳でイルカを見つめた。
「どんなイルカ先生でも、同じイルカ先生でしょ?人間ですから、だらしのない時もきちんとした時もありますよ。」
「カカシ先生…」

なんて心の広いいい人なんだろう…こんな人もいるんだ…

イルカが感激している傍らで、カカシは「さ、始めますよ!」と早くもやる気満々で腕まくりをしていた。カカシはブツブツと小声で、「ああっ、きっとこの中に俺垂涎のお宝が沢山…」と熱い吐息を漏らしていたのだが、イルカは感動に浸っていたので気付かなかった。






イルカ先生って意外と大袈裟なんだな…

カカシはイルカの部屋を手際よく掃除しながら、安堵に正気を取り戻していた。
頑なに家に上げるのを拒むイルカに、一時は最悪の事態まで考えて、間男の抹殺のためにクナイまで取り出してしまった。
俺も慌てん坊だなあ、とカカシは一人照れたように笑った。

まさかこの程度の家の汚れで恥ずかしがっていたなんて…いつもと大して違わないのに。
おかしな人だなあ…でもそこが可愛いんだけどvv

異臭漂うごゴミの中でカカシは至極真面目にそう思っていた。
カカシにとってそこは芳しい香りに満ちた宝物殿のようだった。
例えばカップ麺の空容器も、イルカがその可愛らしい口をつけて啜ったのかと思うと貴重な宝物だ。脱捨てられた汗臭い服に至ってはゾクゾクと背筋が震えた。
「イルカ先生、汚れ物は洗濯機に入れて回しときますよ、」とハアハア息を乱しながら洗濯機を開ければ、そこには使用済み下着が山のようになっていた。

お、おおお〜…!

興奮のままにさり気なく一枚掴んでポケットに捻じ込んだのは言うまでもない。イルカが洗濯を溜め込む事は滅多にないので、洗濯された下着しか持っていなかったカカシだ。だらしなくなったイルカに感謝したいくらいだった。

ゴミ御殿最高…!

カカシが幸せを噛み締めていると、大分綺麗になった部屋の真ん中で、イルカがしょんぼりと肩を落としていた。

どうしたんだろう…?そんなにこの部屋を見られたことがショックだったのかな…?

あまりの浮かない様子にカカシもなんだか気分が落ち込んできた。何時だって合わせ鏡の様にイルカの表情につられてしまうのだ。
「イルカ先生、どうしたの?この部屋の汚れ具合を気にしてるんだったら、俺は本当に気にしてな…」
「違うんです、」
カカシの言葉をイルカは震える声で遮った。
「俺の気にしてるのは別のことで…あ、あのカカシ先生、ストーカーなんですけど…」
イルカはいいかけて何故かそこでゴクリと唾を飲んだ。
「やっぱりストーカーがいるみたいなんです…カカシ先生が任務に出かけたら、またその気配が濃厚になって…」
「ええっ!?な、なんですって?俺の留守中にストーカーが…!?」
イルカの意表をついた言葉にカカシは心底吃驚して大声を上げてしまった。ストーカーは自分だ。その自分の留守中に気配がするなんて、本当だったらありえない。ありえないが。

このところのイルカ先生の人気は凄まじかったもんなあ…

自分ほどではないにしても、確かにプチストーカーが物陰に隠れてイルカを追っていた。その数は移動する羊の群れの如く、カカシも全員をジンギスカンよろしく闇に葬り去るのに苦労した。
だがそれも自分が目を光らせていた間の話だ。任務中、何のガードもないイルカに近付く輩がいても不思議ではない。というよりも当然の事といえた。

た、大変だ…!俺以外にもイルカ先生のあられもない姿を覗いた奴がいるかもしれないなんて…!

激しい焦燥と嫉妬に身を捩るカカシに、イルカは縋るように言った。
「情けない話ですけど、捕まえようとすると逃げられてしまって…
お願いです、カカシ先生。ストーカーの監視をしてください…!」
「勿論です!」
願ってもない事を言われて、カカシはイルカの手をどさくさ紛れにがしっと握った。
「安心してください、イルカ先生!俺はあなたを守るために、24時間365日、覗いて覗いて覗き続けます…!」
イルカのその手の感触にほわわ〜んとしながら、

くそ…!ストーカーめ…!俺の留守中に好き放題しやがって…必ず捕まえてイルカ先生の裸を見た目を抉り取ってやる…!

自分の事は棚上げで、(そしてストーカーがイルカの裸を見たかは定かではないのに)カカシは恐ろしいほどの憤怒の炎を燃やしていた。


4へ

続く