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そんなある日イルカが突然倒れた。
病院で目を覚ましたイルカに、
「過度の緊張によるストレスと肉体の酷使による疲労が蓄積されているようです。」
医者は休養も大事ですよと釘を刺しながら栄養剤を処方した。

過度の緊張と肉体疲労か…

イルカは頭の中で繰り返して、深い溜息を吐いた。それについては何となく自覚していた。
何しろカカシが見詰めているだけで、眠っていた大脳の200%がフル稼動、潜在的な能力が勝手に引き出されてしまうのだ。
身体能力を超えた大脳からの行動指令に、最近体はついていく事ができずに疲弊しきっていた。しかも脳の使い過ぎか、イルカは偏頭痛にも悩まされていた。いろいろと限界だったのだ。

理想の自分になれちゃうなんて…ドーパミンの分泌のし過ぎで幻覚を見ていたんだな、きっと…
大体、理想の自分には足の長さが5cmも足りないじゃないか…所詮無理な話だったんだよ…

笑顔の作り過ぎで、口元に笑い皺までできてしまった。
イルカはその皺を指先で引き伸ばしながら、心配そうに自分を覗き込むカカシ…がいるであろう天井を見詰めた。
少しずらされた羽目板の隙間から、カカシの澄んだ青い瞳が見える。

見られている。

そう思うのに、イルカは憑き物が落ちてしまったように何の興奮も感じなかった。

俺はもうお終いだ…

イルカはズズッと鼻を啜った。カカシが天井から自分を見詰める姿を意識しても、理想の自分を演じる気力は湧き起こらない。それほど疲れきっていた。今ベッドに横たわっているのは素の自分だ。等身大の自分。

とてもカカシ先生には釣り合わない…

思えばカカシの前では粗相はできないという気持ちから全ては始まった。
あの頃からカカシに釣り合うようになろうと必死だったのかもしれない。だからカカシの瞳で無ければならなかったのだ。カカシが見てくれなければ意味は無いのだから。

自分の為だと思っていたけれど…違っていたんだな…

グッと口をへの字にすると、じわっと目元に熱いものが込み上げてくる。イルカがそれを拭うよりも早く、別の指先が優しく目元を拭った。
「カカシ先生…」
「どうして泣いてるの…?何処か痛い?」
イルカが言葉もなくジッと見詰めているとカカシが急に慌て始めた。
「あ、あの、天井裏から勝手に降りてきてごめんね…?で、でも心配で…ストレスと疲労なんて、イルカ先生働き過ぎですよ。俺も心配していたところだったんです。いい機会だから療養もかねて、二人で温泉なんかどうです…?」
言いながらカアッと顔を赤くする。その様子に何故かイルカは堪らなく悲しくなった。
「カカシ先生…俺もう駄目です…」
思わず弱音を吐く。
「えっ!?」
「もうこれ以上頑張れない…カカシ先生の前では最高の自分を演じてましたけど…俺は本当は矮小で安普請な人間なんです。半額のコロッケを更に値引きするように迫ったり…トイレットペーパーのダブルを買ってしまった時には二枚に剥がして使ってしまうような奴なんです…嫌な奴には唾を吐くし、好みの女性には鼻の下を伸ばす…」
「はあ…」
「だからもう、カカシ先生とは付き合えません…」
「ええぇぇぇっっっ!?ちょ、ちょっとイルカ先生…は、話が見えな…」
「俺じゃ、天下の写輪眼に釣り合わないと言ってるんです!」
逆切れ気味にイルカが叫ぶと、カカシがぽかんとした顔をした。そして次の瞬間にはげらげらと腹を抱えて笑い出した。しかも目尻に涙なんて浮かべちゃっている。あんまりだとイルカは憤慨した。
「何笑ってるんですか!?俺はこれでも真剣に…っ」
「あのねえ、イルカ先生。」
カカシは笑い涙を拭いながら、ついと人差し指を立てて見せた。
「俺はあんたの事を十余年もの間、物陰から見詰め続けてきたんです。そのままのあんたを。頑張ってる最高のイルカ先生とやらもいいけど、俺はゴミ御殿に埋もれた薄汚いイルカ先生も、使用済みのパンツを裏返しにしてまた穿くだらしないイルカ先生も、コンニャクで己を鍛える探究心旺盛なイルカ先生も、皆皆好きです。大好き…!それなのに、今更何言ってるの?」
「カカシ先生…」
「イルカ先生なら、なんでもいい。」
イルカ先生は違うの?汚かったり、だらしなかったり。変態ストーカーだったり。そんな俺は嫌い?
答えの決まりきった事を聞かれて、イルカは自分の馬鹿さ加減をつくづく思い知った。

俺に似せたダッチワイフを犯したり…貞操帯を装着させたり監禁したり…
確かに変態だけど…そんなカカシ先生も、

「…好きです。どんなカカシ先生でも、好きに、決まってるでしょう?」
カカシは物凄く嬉しそうな顔をしてイルカの鼻先にチュッと口付けた。
簡単な事だった。

そうだよ…カカシ先生だけが、ゴミ御殿に埋もれるトドとなった俺に変わらぬ態度で接してくれた…

始めから無理する事はなかったのだ。ふうっとイルカの体から気負いが抜けていく。
ちゅっちゅっと調子に乗って顔中に口付けを降らせるカカシに、
「…俺のコンニャクのナニまで見てたんですね…」
非難がましい声で呟くと、一瞬カカシがギクリと硬直した。
「もう、そんな恥ずかしいところまで見られるのはご免ですから…」
これからは物陰から覗かず、俺の隣りにいてください。
イルカが満面の笑顔でそう言うと、カカシは驚いた様な顔をして、鼻を愚図つかせながら何度も勢いよく頷いた。



その後カカシはイルカの「俺の隣りにいてください。」という要望を言葉以上に忠実に守り、受付所に折りたたみチェアーを持参するカカシに、ストーカーの方がましだったとイルカを悩ませる事となった。
イルカはイルカで、カカシの視線にもすっかりリラックスしてしまって、木の葉の人気ナンバーワンだった頃の姿は今はもう見る影も無い。カーッペッ!と痰を吐き、楊枝でシーハーハーの毎日だ。最早ゴミ男まで堕落はしないが、時々溜めてしまった洗濯物にキノコをはやしてしまったりするイルカだ。
カカシはそんなキノコの生えたイルカの使用済みパンツを、大切そうにピンセットで持ち上げて瓶に仕舞ったりしている。また一からコレクションしなおすそうだ。
それを見てカカシ先生は変態だなあとイルカはしみじみ思うのだが、何処となく幸せな気持ちにもなってしまう。
どんな自分にも揺るぎ無いカカシの姿に。
こうして二人は漸く仲良く肩を並べて歩く、普通…に見えなくも無い恋人同士になった。
それはイルカがストーカーの悩みをカカシに打ち明けてから100日目の事だった。


終わり