(29)

カカシの家に居候するようになってからというもの、イルカの生活は絶好調だった。
カカシが自分を見詰める瞳とぴかぴかで粗相を許されない豪邸が、イルカに寸分の隙を許さず、今まで以上に厳しく律していく。その緊張感にゾクゾクした。イルカが気を緩めているのは朝のトイレと晩の入浴時、そして就寝時間だけだった。
パワーアップして帰って来た爽やかイルカに、人々はまた熱狂した。
いつも受付所の窓や入り口に人が群がり、誰かしらイルカを覗いている。
「用事のない方は他の方の迷惑ですから、どいてくださーい!」
受付の同僚が蜘蛛の巣のついたはたきを片手にしっしと追い払う。なんだか昔のコントみたいだなあ、とイルカが見詰めていると、同僚がフウと溜息をつきながら振り向いた。その瞳が同情的だ。
「あんなに皆に四六時中監視するように見詰められて…気詰まりじゃないか…?」
「いいや、全然!」
一瞬の躊躇いもなくイルカは即答した。それは本当のことだった。
どうしてなのか。何十人という人目に晒されていても何も感じない。それなのに。

カカシ先生の視線だけが…俺の心を動かすんだよな…

お決まりの様に天井の薄く開いた羽目板から覗く銀髪を確認して、イルカはうっとりとした表情を浮かべた。

他のうぞうもぞうの視線では駄目なんだ…あの尊敬すべきカカシ先生の瞳でなくては…!

他の誰に覗かれていてもまるで鈍感で、その存在を察知する事ができないイルカだが、カカシの気配だけはどんなに微かでも鋭く感知できるようになっていた。今の俺はまるで高性能カカシ先生探知機だ、とイルカは苦笑した。その苦笑を誤解して、同僚が「あんまり無理するなよ、」とイルカの肩をたたきながら、心配そうに言葉を続けた。
「最近は…お前に目をつけた上忍が権力を笠に着て、家政婦みたいな仕事までさせられてるっていうじゃないか…高級住宅街でゴミ出ししてるお前を見たって噂だぞ…え、エプロンしてたって…受付所ではしないのか…?あ、い、いや、な、なにか他にも無体を強いられてるんじゃないか…?お、俺だったらお前にゴミ出しなんてさせない…箸より重いものは持たせないのに…!」
ううっと突然男泣きに泣き出す同僚に、
「はは…あ、ありがとな…でも別に本当にそんな事はないから。」
ティッシュを差し出してやりながらも、イルカは一歩退いた。

…なんだかなー…箸より重いものって…
俺が小汚くなった時は書類の一杯入ったダンボールを三箱持たせて、その上に差し入れの蜜柑の箱まで積んだくせに…
ああ、なんかこういうの嫌なんだよなあ…

イルカは表面上は翳りのない爽やか二百パーセントの笑顔を浮かべ仕事をこなしながら、心の中で密やかに嘆息した。イルカの落差激しい変貌振りに周囲の態度も急変する。理想の自分をちやほやされて嬉しく思いながらも、小汚い自分には見向きもしなかった事を思うと、何処か釈然としない気持ちになる。

仕方の無いことなのかもしれないけど…でも、カカシ先生は違う…だらしない俺にも親切にしてくれて…
どんな俺であってもいつも態度が変わらない…

その事を考えるとイルカはなんだか心の中が暖かくなった。

カカシ先生の包容力を…俺も見習いたいな…まだまだカカシ先生の足元にも及ばないけれど…
このまま自分を磨いて、いつかカカシ先生が感心してくれるような理想の俺になりたい…!

やる気を漲らせるピンと伸びたイルカの背中が、しかし次の瞬間には気落ちしたように丸くなった。

でも…肝心のカカシ先生が最近何だか元気がないんだよな…

意気揚々とやる気に満ちた自分とは反対に、イルカと同居するようになってから、カカシの顔色は悪くなっていく一方だった。気のせいではなく、目に見えてげっそりとやつれていっている。

でも食欲がないって訳じゃないんだよな…

イルカの作った食事を「美味しい、美味しい」とおかわりするほどで、お昼の手作り弁当は何時も空だし、三度きちんと食べているはずだ。それなのにカカシは日々痩せ細っていく。

以前から線の細い人だったけど…今ではまるで一反木綿のようだ…どこか体の具合でも悪いんだろうか…?

イルカが体調について尋ねると、カカシは決まって「何処も悪くないですよ…。だ、大丈夫です…」と説得力がないほど苦しそうに答えた。時々脂汗を流しながら、「里の機密部屋」に息も絶え絶えに駆け込んだりしているカカシに、イルカは不安を覚えずにはいられなかった。

カカシ先生の体に何が起こっているんだろう…?それは里の機密に関係してるんだろうか?
俺はあんなに苦しそうなカカシ先生を、このまま黙って見過ごしていていいのかな……

イルカが思わず切なく溜息を漏らすと、一拍遅れて周囲からも「はふう…んvv」とサラウンド方式で切ない溜息が聞こえた。
その中に苦しげなカカシの溜息を聞き分けて、イルカは憂えたように眉根を寄せた。

続く

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