例えば、それはほんの些細なこと。
目が合うとか。
目が合ったらニッコリ笑ってくれるとか。
俺の名前を呼んでくれるとか。
別にそれは俺だけに特別に与えられたものではないというのに。
彼が俺に向けてくれる、些細な振る舞いが、俺にとっては特別なもの。
それだけで胸がときめく。
それだけで毎日が薔薇色。
なんて、お手軽。
なんて、幸せ。


HappyHappySIDE Kakashi


「コンニチハ、イルカ先生。」俺が言うと、律儀なあの人は同じように返す。

「こんにちは、カカシ先生。」

拝見します、と礼儀正しく報告書を受け取り、真剣に目を通す。
イルカ先生が過誤を確認する、このほんの少しの間が好きだ。
この間に俺は無遠慮にイルカ先生を見つめることができる。至近距離から、顔は勿論、普段はあまり見ることのない項やら耳やら、ヘンなところまで。イルカ先生って意外に福耳だなあ、とかくだらない発見に喜び、次にはそのふっくらとした耳朶に歯を立てたいなあ、とかよからぬ妄想に身を捩る。
そのくせ、イルカ先生がパッと顔を上げると慌てて視線を外す。まるでイルカ先生に注意を払っていなかったかのように。
そんな俺の不自然な態度に全く気付くことなく、イルカ先生はいつものように、はい、結構です、とお決まりの言葉を告げる。

「任務、お疲れ様でした。」にっこり。無敵の笑顔。それだけでイキそう。

「いいえ〜全然疲れてませんよ〜ありがとうございます、イルカ先生。」俺もにっこり。うまく笑えているだろうか。

「ナルトの奴はどうですか?うまくやってますか?」いつもナルトナルト。軽いジェラシー。

「イルカ先生、ご心配なく。ナルトも大分成長しましたよ、イルカ先生。」名前を口にしたくて、不自然に連呼してしまう。

「そうですか!それを聞いて安心しました。ご迷惑をおかけすると思いますが、ナルトをよろしくお願いします!」

ペコリと下げられた頭の上で括られた髪がゆらゆら揺れる様を、俺は名残惜しげに見つめた。ああ、これで今日の会話は終りだ。
溜息と共に受付所を後にする。未練がましく振りかえると、イルカ先生はもう次の奴に微笑みかけていた。
振りかえるんじゃなかったと、少しへこんだ。



でもそれだけじゃ足りなくなってきて。、もっとと求める心に追いつかなくなってきて。
思いきって、誘ってみる。自然にさりげなく。断られないようにナルトをだしに使って。

「イルカ先生、今晩飲みに行きませんか?ナルトの事で聞きたいこともあるし。」

何度も練習したのに、言葉が震えた。

イルカ先生は一瞬ぽかんとしたが、すぐに破顔一笑して頷いた。

「ええ、喜んで。」

やった!俺は有頂天だ。喜びで胸が熱くじんじんと痺れる。
じゃあ、また後で。踵を返す俺の足元がメレンゲのようにふわふわして心もとない。
ええ、喜んで。イルカ先生の言葉を何度も何度も繰り返す。
こうして、ゆっくりと確かめながら距離を詰めていく。
ゆっくりと、イルカ先生に近づいていく。
そしていつか、その傍らに行けたらいい。


初めて会った時から、あの笑顔が気になっていた。
お愛想じゃなくて、本当に心からの笑顔。
皆当たり前のように思っている。イルカ先生はいつも笑顔で迎えてくれると。いつも優しい笑みを与えてくれるのだと。
最初のうちは俺もそうだった。イルカ先生の笑顔が欲しくて、毎日受付に通った。

でもあの日。任務の帰り道、偶然川辺りに座るイルカ先生の姿を見つけた。俺は嬉しくなって声をかけようかと近付いてギクリとした。
イルカ先生が泣いていた。辺りに誰もいないのに、それでも誰にも見咎められないように、声を押し殺して。こぼれる涙を堪えるように。時々込み上げてくる何かを胸から逃すように、ハーと深く息を吐き出す。イルカ先生は夕陽が沈んで辺りがすっかり暗くなってしまっても、ずっとその場を動かないままだった。
その時の俺の気持ちといったら。俺はすぐさまイルカ先生をこの腕に掻き抱いて、思う存分泣いていいのだと言ってやりたかった。そんな哀しい泣き方をしなくていいのだと。だけどそんなことを言う権利が自分に無いことを知っていた。イルカ先生の隣に座って一緒に夕陽を見ることさえ。俺にできることは、遠く離れた場所からイルカ先生を見守ることだけだった。
イルカ先生の笑顔が好きだった。
それだけあればいいと思っていた。
でも俺はこの時、全部知りたいと思った。イルカ先生の泣いた顔も、悲しい顔も、怒った顔も、全部。
笑顔だけじゃなく、いろんな顔を全部俺に向けてくれるといい。全部欲しい。
そうして。イルカ先生が笑顔を忘れてしまうような時、全部俺が受け止めてまた探してあげるのだ。俺の大好きな笑顔が戻ってくる方法を。

それ以来イルカ先生の笑顔だけじゃ、満足できなくなってきて。
勇気を出して1歩近付く。最初の1歩を踏み出してしまうと案外度胸がつくものだ。
イルカ先生が誘いを断らない性質だと分かってくると、踏み出す俺の足がゆっくりとしたものからどんどん駆け足のようになっていく。
いつかなんて漠然としたもので無く、明日にでもイルカ先生の傍らに行きたいと思い始める。
はやくイルカ先生に辿り着きたい。焦る気持ちに急き立てられて、毎日のように飲みに誘う。
今日はどこまで近付けるだろう。
今、俺は全力疾走だ。
だって、もう見えてきたから。

もう少しで、辿り着くから。



                      終
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