(42)
カカシの後を追ってすぐに店を飛び出したのにも関らず、イルカはカカシの姿を見つける事ができませんでした。
「はたけ上忍、何処にいるんですか…?はたけ上忍…っ、」
街中を走り回りつつ、声を張り上げ必死でカカシを捜すイルカを、擦れ違う人達は何事かと怪訝な顔をして振り返りましたが、それに気を払う余裕すらありません。
はたけ上忍は一体何処へ行ってしまったんだろう…定食屋を飛び出してから、まだ数分しか経っていないのに…
幾ら凄腕の上忍と言えど、こんな僅かな間に暗部の追捕の網を潜り抜けて、何処か遠くへ逃げおおせる事はできないでしょう。
きっとまだ近くにいる筈です。
忍の動体視力でも捉えられないほどの猛スピードで走っているのかな…?それとも人目を避けて、裏路地や屋根の上などを選びつつ移動しているとか…?いいや、どちらも違って、既に何処かに身を隠して、ひとり涙を流しているのかもしれない…
想像して、イルカはなんだか堪らない気持ちになりました。
俺が大した考えも無しに、最初の屋外デートを昼時の混雑した定食屋なんかにするから…!いきなりそんなハードルの高い場所じゃなく、例えば裸でもおかしくない銭湯や温泉でデートするとか…そういう場所から始めればよかったんだ…!そうすればきっとこんな事にはならなかったのに…!!俺の所為ではたけ上忍は傷ついて……っ!!!!
イルカは自分を責めました。
初めてのデートにいきなりしっぽり銭湯や温泉というのもいかがなものか…という感じですが、兎に角イルカはそう思ったのです。
年中素っ裸だから誰かと付き合う事ができないなんて…絶対にそんな事はない…俺はそんな事思っていないのに…!
今それを伝えなければ、カカシは二度と自分の前に姿を現す事がないような気がして、イルカは走るスピードを上げました。
「はたけ上忍――!聞こえていたら返事をしてください――!!」
カカシを捜し回るイルカが町の真ん中を流れる大きな川へと差し掛かった時、前方に掛かる橋の上に人だかりができている事に気付きました。
「頑張れ」「えらいこっちゃ、」「しっかり掴まっていろ、」と皆橋の下を覗いては大騒ぎしています。
なんだか胸騒ぎがして、イルカが目を凝らして人々の視線の先を見ると、なんと五、六歳くらいの小さな子供があっぷあっぷとしながらも、辛うじて橋桁に掴まっているではありませんか!
イルカは驚きに目を見張りました。
きっと誤って川に落ちたのでしょう。
「暴れ太郎」の異名を持つこの川は流れが早く水流は複雑に渦巻いて、流されたら最後大人だとて命の保証はない危険な川です。
それが分かっているからこそ、大人達は安易に飛び込む事もできず、「助け舟が到着するまで、なんとか掴まっていろ」と橋の上から子供を励ます事しかできないのでしょう。
しかし既に限界だったのか、励ましも虚しく、その時子供の手がするりと橋桁から離れました。
きゃあっと橋の上で悲鳴が上がり、小さな身体が見る見る間に激流に押し流されていきます。
「…っ!」
それを目にした瞬間、イルカはベストを脱捨てて、渦巻く川へと身を投じていました。
カカシの事が気掛かりでしたが、だからと言って、この場を見て見ぬ振りするなんて事はできません。
だって、子供が溺れているのです。
助けを求めて、必死にもがいているのです。
この川の危険も十分に承知していましたが、イルカに迷いはありませんでした。
兎に角離されたらおしまいです。イルカは必死で水を掻き、溺れる子供に追い着くと、なんとかその小さな身体を自分の腕の中に捕まえる事ができました。
しかし子供は多量に水を飲んだのか、既にグッタリして意識がありません。すぐさま人工呼吸を施さねば危うい状態でした。
早く岸まで行かなくちゃ…!
イルカは焦りましたが、川の流れは想像以上に激しく、要救助者を抱えて、なんとか浮いているだけで精一杯です。
イルカの力ではとても川岸まで泳ぎ着けそうにありせんでした。
ど…どうしよう…どうしたらいいんだ…?
このままでいたら、ふたりともお陀仏です。
なんとかこの子供だけでも助けたいのに……
そうこう考えている間にもどんどん身体は流され、イルカは次第に浮いている事さえままならなくなってきました。
沈んでは浮いてを繰り返すうちに、なんだか意識が朦朧としてきます。
不味いなあ、と思いつつ、
こんな事が以前にもあったな……
とイルカはカカシと初めて出会った時の事を思い出していました。
ナルトと川に流されて、死にそうになっていたところを助けられた時の事を。
その時のお礼を言いそびれたままになっている事を……思い出していました。
はたけ上忍……
目蓋に浮かぶカカシの優しい笑顔に、イルカは再び力が漲ってくるのを感じました。
…こんなところで死ぬわけにはいかない…!俺は…俺は…はたけ上忍に言いたい事が沢山あるんだ…!
イルカが強く心に思った瞬間。
近くでばしゃんと誰かが飛び込んだような大きな水音が聞こえて、ハッとしたイルカがそちらへ目を向けると、なんとそこには………巨大な金のしゃちほこ………のようなものがびちびちと跳ねるようにして、物凄い勢いでイルカの方へと泳いで来る姿が見えました。
え…?
そんな馬鹿な、とよくよく目を凝らして見ると、それは金のしゃちほこではなく、金色の衣服を纏った誰かが猛スピードでバタフライしてくる姿でした。
ぶくぶくと半分沈みながら、イルカは信じられない思いに胸が熱くなるのを感じました。
水飛沫で顔がよく見えなくても、それが誰かイルカにはすぐ分かりました。
木の葉広しと言えど、黄金に輝く割ぽう着があんなに似合う人はひとりしかいません。
「イルカ先生…もう大丈夫だ〜よ…!」
沈みかけたイルカの身体をザバッと引き上げて、にっこりと微笑んだその人は、イルカが捜していたカカシ本人でした。
「カカシ先生…」
「話は後です。イルカ先生、俺にしっかりと掴まっていてください。」
「は、はい…」
言われた通りにイルカがその身体にギュッとしがみつきますと、カカシはそれを合図にイルカと子供のふたりを腹の上でしっかと抱き止め、ラッコのような姿勢で岸に向かって猛スピードで泳ぎ始めました。
先ほどまで溺れかかっていたイルカは、今やカカシの腹の上で水飛沫を浴びる程度でした。
しかしふたりを乗せて泳いでいるカカシの身体は完全に水没して、背泳ぎだった筈がいつの間にかバサロのようになっていました。
一流の忍は何十分も呼吸を止めていられるものですが、
ほ、本当に息継ぎしないで大丈夫なのか…?
凡人のイルカはカカシの身を案じて、ひとりハラハラとしました。
カカシは水面下でゼリー寄せの具の様になりながらも、産卵期の鮭の如く必死に泳いでいます。
水の中でもしっかりと目を開けているようで、左の赤い異能の瞳がさながらチェリーのように見えました。
その身体を包む割ぽう着の輝きは混濁した奔流の中でも少しも損なわれる事なく、きらきらと金色(こんじき)の光を放っています。それが透けて水面を内側から美しく優しく飾っていました。
なんて綺麗なんだろう…
その奇跡のような輝きを見詰めながら、イルカは急に泣きたいような気持ちになりました。
…また…俺を助けに来てくれた…
危機に陥った時は必ず、この金色の光がイルカの傍らにありました。
己の危険を顧みず助けてくれる―――カカシの姿が。
どうしてここまでしてくれるんだろう…どうしてこの人はここまで…
そう考えて、イルカはすぐにそれが愚問だった事に気付き、首を横に振りました。
カカシは誰に対してもそういう人なのです。
他人を救う為に躊躇いなく、自分の命をも賭す事ができる人。
はたけ上忍が眩しく見えるのは黄金の衣服の所為ばかりしゃない…
イルカはそう思いました。
その清廉な心の輝きこそが一番カカシを輝かせているに違いありません。
もう一度顔を合わせる事ができたら、言いたい事が沢山ありました。
伝えたいのに、伝えていなかった事が沢山…
しかし今はそれを伝えている場合ではありません。
ホッとしたのも束の間、イルカは自分の腕の中で急速に温度を失って行く子供の身体に、激しく焦燥しました。
子供はぐったりと白蝋の如き顔をして、先ほどからぴくりとも動きません。
イルカは不安でなりませんでしたが、しかしどうする事もできず、ただ只管にその身体をギュッと抱き締めているだけでした。
カカシの力泳は続いています。
岸はもうすぐそこに迫っていました。
お願いだ…どうか保ってくれ…!
イルカが堪らず心の中で悲痛な叫びを上げた瞬間、大丈夫ですよ、と励ますようにカカシが抱き締める腕に力を込めました。
そのタイミングのよさにイルカはドキッとしました。
幾らなんでも心の声が聞こえる筈はないのですが……水の中からイルカの様子に気を払っていたのでしょうか。
それが正解である事を伝えるように、カカシは水中からイルカに向かってニコッと微笑んでみせると、更に泳ぐスピードを上げました。
はたけ上忍…!
カカシの気遣いに、またじわっと胸の奥から熱いものが込み上げて来たその時。
まるで水底で照明弾が炸裂したかのように、パアアと水面が金色の眩しい光を放ちました。
そのあまりの眩しさにウッと目を瞑ったイルカが次に目を開けた瞬間。
東映映画の怪獣の登場シーンの様に、水面が瘤の様に盛り上がったかと思うと、それを突き破るようにして、ザバアアアアアッ!と黄金の塊が飛び出しました。
それは水中から身体を起こしたカカシの姿でした。
「さ、イルカ先生…着きましたよ。先に子供を岸に上げますから俺に渡してください…」
そう言われて初めて、イルカは自分達が既に岸に辿り着いていた事に気付きました。
カカシにすぐに子供を渡すべきなのに。
しかしイルカはすぐに反応する事ができませんでした。
目の前の信じ難い光景に度肝を抜かれていたのです。
「この子は絶対に死なせやしない〜よ、」
と緊迫感溢れる表情で呟くカカシはどうしてなのか………黄金の文金高島田に黄金無垢(?)といった花嫁姿をしていました。
続く