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  まさかこんな事になるなんて……

イルカは大好物の日替わり定食の穴子丼を前に、先ほどまでのホクホク顔とは打って変わって、沈痛な面持ちをしていました。
 ちっとも食欲も沸きません。
 勿論それは揚げたてカリッとを食べるのが信条の穴子の天麩羅が、しんなりとしてしまった所為ではありませんでした。
 シチュエイションと申しましょうか、イルカは自分の置かれた特異な状況に、ただただ萎縮していました。
 定食屋の入り口には武器を構えた暗部が侵入者を防ぐように物々しく立っていました。
 中を覗かれないように、窓という窓には暗幕が貼られています。
 薄暗い中、床の上には死体の様に転がるお客さん達の山・山・山……中には食べ掛けの定食の上に顔を突っ伏したまま気絶している人の姿もありました。
 そう、それはひれ伏すのが遅れた一般民間人のお客さん達でした。
 催眠ガスが引いた後、暗部のはたけカカシ条例施行委員の人が教えてくれて初めて知ったのですが、条例は木の葉の忍にだけ適用されるものであって、民間人はその対象外だったのです。
 民間人の動きを制約する事ができるのは国主だけで、火影様にそうした権限は無いのでした。

本来ならば、カカシを守る為に民間人をも催眠ガスで昏倒させるなど越権行為なのだ、と暗部の人は苦々しく言いました。
「火影様はどうしてお前の軽率な振る舞いを許すのか…お前の所為で火影様は危ない橋を渡っていらっしゃるんだぞ…?忍の里なれど、人口全てが忍というわけではない…はたけ上忍だとてそうした事情を理解しているからこそ、条例上は問題無くとも、今まで自由な行動を控えておられたのに…お前の勝手に巻き込まれて…。『世の中に疎いから』と甘えていないで、もっとちゃんと条例の事も勉強したらどうだ?」
 咎めるようなその言葉に、イルカは何も言い返す事ができませんでした。
 その通りだと思ったからです。
 店の奥からは、
「はたけ上忍に速やかにお茶をお出しするように…むっ、それ以上顔を上げてはいかん…!命が惜しかったら、足の爪先を見たまま給仕をするんだ…!!
 おかみさんが暗部に無茶な要求をされているのが聞こえて来ました。
 暗部の人曰く、この外食作戦が無事完了した後は、昏倒しているお客さんだけでなく、おかみさんたちの記憶も封じられるとの事でした。
 …おかみさん…目覚めたら今日の売上げが少なくて吃驚するだろうな…とんだ営業妨害をしてしまった……それに…昏倒している人達だってまだ食事途中なのに…起きた頃には休み時間がとっくに終ってる……
 イルカはシュンと項垂れました。
 …確かに俺、条例について不勉強過ぎた…世の中に疎いというより、俺は考え無しの馬鹿だ…馬鹿なんだ……!
 消沈するイルカの前には、日替わり定食を挟んでカカシが燦然とした光を放ちながら座っていました。
 暗幕の貼られた薄暗い店内で、その輝く姿は一層際立って見えました。
「…イルカ先生、お待たせして申し訳ありませんでした。手筈を整えるのに時間が掛かってしまって…。ああ、これがイルカ先生おすすめの日替わり定食ですか?本当、ワンコインなんて信じられないな…すごく美味しそうですね、」
 そう語りかけるカカシは目深に被った黄金の火影笠の下、ふわりとした割ぽう着に身を包み、優しく微笑んでいます。
 しかしイルカはその姿を直視する事ができませんでした。
 これははたけ上忍の思い描いていたデートとは明らかに違う……俺はこんなに周りに迷惑をかけておいて、しかも結局はたけ上忍の為に何もしてあげられてないんだ…
 「善意の押し売り」という言葉が頭の中に浮かんでいました。

なんとも情けない心地がして、イルカが黙ったままでいると、
「……食べないんですか?」
 とカカシが遠慮がちに聞いてきました。
 幾らイルカといえど、こんなに周囲に迷惑をかけて、自分だけのうのうと穴子丼を掻きこめるほど図々しくはありませんでした。
 傍らで監視する暗部の冷たい視線が先ほどからちくちくと痛いほどです。
 その一方で、食べ物を無下にする事はできない!という気持ちもイルカには強くあるのでした。
 どうしよう…この場合何が最善の方法なのか…俺が食べなかったらこの定食はゴミ箱行きだ…!それじゃ穴子は何の為に死んだのか分からないじゃないか…!無駄死にだ、可哀相に…!!だけど、ここでガツガツと掻き込むというのも立場的にどうも……
 食べるべきか否か、イルカが葛藤していると、
「……後悔してるんでしょう?イルカ先生、」
 カカシが不意にそう尋ねて来ました。
「え…?」
 何の事かと目を瞬かせるイルカに、カカシは口の端を吊り上げて自嘲的に言いました。
「…昼に定食屋に行くくらいでこんな大事になって…俺って面倒ですよね…」
「は?い、いや、そんな…」
「いいんです、無理しないで……分かってたんです…裸の上忍風情が誰かと付き合うなんて、できっこないって……」
 カカシはそう言うと、堪えきれないといった様子で突然ガタンと席を立ちました。
「はたけ上忍…っ、」
 イルカがあっと思った時には、入り口の戸をガシャンと派手な音を立てて蹴破ったカカシが、目にも止まらぬ速さで店から飛び出していました。
 その間僅か0.3秒。
 流石上忍というか、人間の限界を超えた速さに、護衛にあたっていた暗部の殆ども反応しきれないまま、呆然と突っ立っているだけでした。
 入り口を守っていた暗部に至っては、戸と一緒に蹴飛ばされ、のびている始末です。
「た、大変だ…っ!!まさかあの思慮深いはたけ上忍が後先を顧みず、こんな暴挙に出るなんて……っ!!!!」
「このままではまたセカンドインパクトが里を襲うぞ……!!!早くはたけ上忍の身柄を確保しなくては…っ!!!!!」
 一拍遅れて、ハッと正気付いた暗部の者達が激しい動揺に統制を喪い、右往左往しているうちに、
「はたけ上忍――――待って…待ってください……ッ!!!!」
 イルカは大声で叫びながら、既にその後を追い掛け、走り出していました。
 ここで追いつけなければ、なんとなく。

取り返しのつかない事になってしまうような……

嫌な予感がしていました。


続く