裸の上忍様
(16−20)



カカシの黄金のランニングシャツ姿にイルカは目が点になりました。
一瞬にしてランニングを着込む技量は流石上忍、見事なものでしたが、しかし果たして今この緊迫した場面でランニングを着る必要なんてあったのでしょうか。
ふざけた態度で火影様を挑発しているのか、それとも単に肌寒かっただけなのか…
カカシの意図するところが分からず、イルカは激しく狼狽しました。
ランニングはほうと恍惚の溜息が出るほど美しいものでしたが、今そこは焦点ではないでしょう。

ど、どうしていきなりランニングなんだ…?

狼狽しながらもイルカの視線は黄金のランニングに吸い寄せられました。
高貴な輝きの中にも温か味があり、何処か懐かしさを覚える形です。思わずホッと安堵してしまうような、切なくなるような…
何故そんな風な気持ちになるのか、イルカは不思議でなりませんでした。
その時イルカはああ、そうだ、と思いあたりました。

ああ、そうだ…はたけ上忍の着ているランニング…いつも父ちゃんが着ていたU首型ランニングにそっくりなんだ…

イルカの父親は家で寛ぐ時、いつもズボンはちゃんと穿きこそすれ、上半身はランニング姿で過ごしていました。
ビールを飲みながら枝豆をつまむ父親の背中に、小さなイルカはよく張り付いたものです。
その頼り甲斐のある広い背中が大好きでした。

…見れば見るほど、はたけ上忍のランニングと似てるなあ…
俺が引っ張るから、ちょっと首の部分がのびてるところまでそっくりだ…材質は全然違うけど…

まるで亡き父親に庇われているような錯覚に陥り、イルカは鼻を愚図つかせながらもカカシに向って尋ねました。
「な、なんではたけ上忍、突然黄金のランニングなんか着てるんですか…?」
そんな事を聞いている場合ではないと分かってはいたのですが、あまりに不可解で、とても訊かずにはいられなかったのです。
その疑問を解かずして、話を先に進められないという心境でした。
「え…っ?」
イルカの言葉にカカシは間の抜けた声を上げました。
わけが分からないといったように、戸惑った表情を浮かべイルカを見詰め返します。
さてはよく聞こえなかったかと思い、イルカはもう一度言いました。
「あ、あの、どうしてこんな場面で黄金のランニングを着たんですか…?決闘を申し込む時の手袋のように何か意味があるのかなあって、俺さっきから気になって…」
すると今度は火影様が横槍を入れました。
「な、なんじゃと…?イルカよ、お前は今何と言ったんじゃ…?カカシが黄金のランニングを着ているじゃと…!?」
身を乗り出す火影様のその酷く深刻な様子に気圧されて、イルカはたじろぎました。
知らずにまた何かまずい事でも言ってしまったのだろうかと急に不安になります。

でも自分から聞いておいて、答えないわけにはいかないな…

イルカは心を決めて、これが最後とばかりに大声ではっきりと言いました。
「はい、そうです。はたけ上忍はさっきまでは確かに黄金のパンツ一丁だったのに、どうして今は黄金のランニングも着込んでいるんですか。俺の知らないしきたりでもあるんですか?」
すらすらと淀みのないイルカの言葉に、カカシと火影様が息を呑みました。
暗部のものたちの間にもざわめきが漣のように広がります。
「あいつは何を言っているんだ?」
「罪を逃れるための狂言か?」
ひそひそと呆れたような囁きが聞こえました。
火影様は渋面して何か考えるようにしていましたが、やがて合図をすると、その場からカカシとイルカを除く全てのものを下がらせました。
三人だけになると、火影様は徐に煙管を口に咥え、ぷかりぷかりと煙を燻らせながら言ちるように言いました。
「黄金のパンツの次は黄金のランニング、か…これは一体どうした事か…着ているものが増えていくなど…
イルカよ、お前はやはり何かカカシにかけられた忌まわしい術を解く鍵を握っておるのかもしれん…カカシの解術が何よりも優先事項じゃ。今一度お前に賭けてみようぞ…イルカよ、此度の件ではお前を不問に処す。」
「ほ、火影様…!」
思い掛けない火影様の言葉に、イルカは吃驚して目を瞬かせました。とても信じられません。
「じゃが釈放する前に言っておかねばならぬ事がある…」
火影様は一段声を低くして言いました。
「確かに真実を告げなかった事はこちらの落ち度であった…よいかイルカよ。
ここにいるカカシは幼い頃に敵に破廉恥の術をかけられ、未だ解術にいたっておらぬのじゃ。条例は破廉恥の術にかけられたままのカカシを好奇の目から守る為のものなのじゃ、」
「えっ、じゃ、じゃあはたけ上忍が始終パンツ一丁姿なのは、もしかしてその破廉恥の術とやらの所為なんですか…?」
上着を羽織れない薄着体質にでも変換されてしまったのだろうかとイルカが驚いていますと、火影様がゆっくりと首を横に振りました。
「いやいや、パンツ一丁よりも始末が悪い…カカシは全裸に見えておるのじゃ。お前以外の目にはすっぽんぽんのノーパン男に…。」
カカシには『写輪眼のカカシ』という通り名よりも有名な呼び名があるんじゃが、お前は知らんのだろうのう…
その時初めてイルカは『裸の上忍様』という言葉を聞いたのでした。




翌日イルカは受付の仕事をしながらも、何処か上の空でした。
イルカの傍らでは釈放された同僚達がいつもと同じように受付の仕事をこなしています。
連行されたものは勿論、その場に居合わせたものも全員記憶操作を受けたようで、誰も昨日の一件については覚えていませんでした。
この人数の記憶を一晩で帳尻を合せるなんて、幾ら木の葉の拷問部が優秀だといっても大変難しい事です。皆今日の為に夜を徹して頑張ったのでしょう。
いつもだったら、俺の不注意の所為で皆に迷惑を…とイルカは落ち込んでいるところですが、今のイルカには周囲に気を払う余裕は露ほどもありませんでした。
イルカの頭の中は昨日火影様に打ち明けられた話でいっぱいでした。

破廉恥の術の所為で、服が透けて全裸に見えるなんて…
「写輪眼のカカシ」のまたの名を「裸の上忍様」もしくは「フリチン上忍」というなんて…

それはイルカにとって俄かには信じられない話でした。
けれども火影様が嘘をつくいわれもありませんし、その為にわざわざ「はたけカカシ条例」まで制定しているのです。
それに他のものにはカカシが全裸に見えているとしたら、「ほんとにこの人素っ裸でやんの…!」と皆が腹を抱えて大笑いした事にも納得がいきます。
大体の話の辻褄は合っているのですが……

…なのにどうして俺にははたけ上忍がパンツを穿いているように見えるんだろう…

問題はそこでした。
そこだけがどうにもこうにも辻褄が合いません。
火影様の話では、子供が大人へと成長していく過程で、服の一部を纏った姿に見える事もあるとの話でしたが、その場合はカカシ本人が着用している衣服の一部が見えるらしいのです。
しかしイルカには何故かカカシが実際に着用していない黄金のパンツの黄金のU首型ランニングが見えるのでした。

どうしてなんだ…?俺、何処かおかしいのか…?

イルカはその事実に愕然とし、脳波の検査を受けさせて欲しいと火影様に懇願しましたが、「毎月健康診断は受けておろう、大丈夫じゃ」と火影様は取り合ってくれませんでした。
絶対に脳に異常があるだけだと思うのに、火影様やカカシはイルカに何かカカシの破廉恥の術を解く鍵があるように多大な期待を寄せているようでした。
イルカはその事が気掛かりでなりませんでした。

火影様にだって解術できなかったんだ…俺なんかに…何かできるわけないじゃないか…

とても憂鬱な気分です。
イルカにとってカカシは二度命を救ってくれた恩人です。解術の為に自分にできる事なら何でもしたいとは思いますが、一体自分は何をしたらいいのか、何ができるのか、サッパリ分かりませんでした。
自分はただ単にパンツとランニングが見えるだけに過ぎないのです。一縷の望みに縋るようなカカシの必死の瞳が目に浮かび、イルカは胸を痛めました。

あの人を落胆させたくないのに、このままでは俺はあの人を傷つけてしまうんじゃ…

イルカは心配でなりませんでした。
ぼうっとしている間に時間は過ぎ、終業時間間際になりました。その日受付は特に忙しくもなかったので、イルカの周りには既に片付けをし始めるものもいました。
その時がらっと受付の戸が開いて、
「イルカ先生―――!」
大声を上げながらナルトが飛び込んできました。
「おい、こら!こんな場所でそんなに大声を上げる奴がいるか!迷惑だろう、」
イルカは突然現れたナルトの姿に吃驚しながらも、教師然と叱り付けました。
そんなイルカに構わずに、ナルトがじゃーんと何か紙切れを広げました。
それは下忍合格証でした。
「ナ、ナルト…まさかお前…」
目を丸くするイルカに、
「俺、下忍になったんだってばよ!」
ナルトは誇らしげに胸を張って言いました。
その背後からようやく追い付いたサクラとサスケが顔を出します。
「ナルトったら…皆でせーの!でイルカ先生に報告しようって言ったのに…!先に言っちゃってずるいわ!」
「ふん…全く我慢もできないのか…」
ナルト達七班の下忍合格の知らせに、イルカは俄かに浮き立った気持ちになりました。自分の事のように嬉しくて堪りません。
特にナルトは九尾の狐憑きと呼ばれ、里では不吉の象徴として忌み嫌われ、差別されていました。
その行く末を案じていただけに、イルカの喜びは並々ならぬものでした。
「そうか、お前達皆合格したのか…!そうか…頑張ったな!」
イルカは子供達の頭を順番に撫でてやりながら、目をウルッとさせました。
合格を出したのは、七班を担当する上忍師はたけカカシです。

あの人は…ちゃんとナルトの事を認めてくれたんだ…
九尾の狐憑きと差別する事無く…ちゃんとナルト自身を見て…

自分以外の誰かがナルトを認めてくれる事は滅多にありませんでした。どんなにナルトが頑張っても、今まではイルカの他には誰も。
それなのに…
イルカはまたカカシに対して、何かぐっと心に来るものを感じました。
胸を温かいものでいっぱいにしながらも、イルカはこれだけは聞いておかねばと子供達に向かって小声で尋ねました。
「ところで…お前達の目にははたけ上忍はどんな格好をしているように見えているんだ?俺に教えてくれないか、」
十二歳という子供と呼ぶには微妙な年齢の三人には、一体カカシはどんな姿に映っているのか、とても心配でした。
カカシには申し訳ないのですが、フリチン姿に見えるのに子供達を指導というのはどうかと思うのです。
答えは三人三様でした。
「え…?どんな格好って…別に普通の忍服を着ているように見えてるってばよ!あっ、カカシ先生が口布をして額当てで顔を隠してるから怪しいとか、イルカ先生心配してんのか!?見た目は怪しいけど、中身は案外普通だってばよ!心配するなってばよ!」
「…上下のアンダー姿だ…時々上半身裸だけどな…」

なんだ、まだまだ皆子供なんだな…

イルカがホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、
「…………」
ひとり無言のまま、ぽうっと顔を赤くしてもじもじするサクラの姿に、イルカは不吉な予感を抱いて固まりました。

ま、まさか、ささささ、サクラ…っっっ、ひ、ひとりだけ大人の階段を上って…!?

サクラは狼狽するイルカとバチッと目が合うと、
「……心配しないで、イルカ先生…お父さんので見慣れてるから大丈夫!あんまり大した事ないし、」
にっこりとはにかんだように笑いながら言いました。

見慣れてるって、何が!?大した事ないって、何処が!?

イルカは確認したくても、事実を知る事が何処か恐ろしくて、とても尋ねる事ができませんでした。




七班子供達の下忍合格をお祝いして、イルカはナルトとサクラとサスケの三人に一楽でラーメンを振舞いました。
給料日まで懐は苦しいのに、えいっと奮発して、イルカは餃子も奢ってやりました。
「イルカ先生、本当にこんな大盤振舞いをして大丈夫なの〜?」とサクラが茶化しながらも心配そうな様子で訊いてくるので、
「余計な気ィ遣うなよ。お前らのお祝いだぞ?今金を使わないで何処で使うっていうんだ?」
イルカはあははと豪快に笑いながら、薄い財布とは裏腹に厚い胸板をドンと叩いて見せました。
実のところ、これで給料日までの五日間昼も夜もカップラーメンに決定でしたが、イルカは一向に構いませんでした。
兎に角、子供達の門出を祝福してやりたかったのです。
「沢山食えよ!」とイルカがにこにこと笑顔を浮かべながら言うと、
「それじゃあ、味噌チャーシューお代わり!」
遠慮なくナルトが追加注文をします。
イルカは自分の餃子を諦めました。
そんな事、子供達の笑顔の前では些細な事です。
ナルトはちゅるちゅるとラーメンを啜りながら、そう言えば、と口に麺を含んだまま、突然呟くように言いました。
「カカシ先生も一楽のラーメン、食べたいって言ってたってばよ!」
「え…は、はたけ上忍が…?」
別に驚くようなところじゃないのに、カカシの名前が出るとイルカはなんだかドキドキしてしまいます。
「そうなのよー!ナルトが『大好きなのはイルカ先生が奢ってくれる一楽のラーメン!』って言ったら、凄く興味を持っちゃって…」
餃子を箸でつついていたサクラも身を乗り出し、会話に参加してきました。
その傍らでサスケが押し黙ったまま、懸命な様子でちるちると一本ずつラーメンを啜っています。
どうやら猫舌のようですが、それを悟られまいと必死に取り繕っているようでした。
イルカはサスケのその姿を目の端に見止めて小さく笑いながらも、
「それじゃあ、今日はたけ上忍も誘えばよかったなあ…!」
そう朗らかに呟いた後、あれ?と首を傾げました。
受付に入って来たのは子供達三人だけだったからです。
「そういえば…今日ははたけ上忍、受付に姿を現さなかったけど…下忍昇格の報告書を提出しなくて良かったのかな…?」
何気なく呟いたイルカに、
「あ〜、カカシ先生の報告書って火影様に直接提出するらしいわよ?受付に出さなくていいんだって、」
サクラが思いがけない事を言いました。
「え、そうなのか?」
イルカが吃驚してそう尋ねますと、こくこくとサクラが頷きました。
「なんでも、あんまり人前に出たら『メーワク』になるから、特別なんですって!」
何処か憤慨した様子で丼を持ち上げ、サクラは汁をズズーっと啜りました。サスケが傍らにいる事をちょっと失念しているようです。
「め、迷惑…?」
目を白黒させるイルカに、今度はナルトが「そうそう!」と腹立たしげに腕組しました。
「今日だってなあ、下忍に合格したって聞いたらイルカ先生が絶対に一楽に連れて行ってくれっから、カカシ先生も一緒に行こうって誘ったんだけどよー…よく分からねえけど、『俺が行くとメーワクになるから、』とか何とか言うんだってばよ!どうしてカカシ先生が『メーワク』なんだ!?
イルカ先生はカカシ先生の事、そうは思ってないだろ…?」
必死の様子でイルカを見詰めるナルトに、イルカは胸を詰まらせました。
ナルトは他人の気持ちに人一倍聡い子です。カカシの中に、何か自分と同じ疎外感のようなものがある事を、敏感に感じ取っているのでしょう。
それにカカシが周りに迷惑をかけるからと人前に出る事を自重していたなんて、イルカにとってなんだかとても居た堪れない事実でした。

あの人は…いつもそうやって人目を避けて…ずっとひとりで過ごしてきたんだろうか…

カカシはナルトと違い、里から忌み嫌われ爪弾きにされているわけでもないのに、二人はとても似ているような気がしました。
お日様の下を自由に歩きまわれるだけ、なんだかナルトのほうが幸せのようにも思えます。イルカの胸がつきりと痛みました。
イルカはくしゃりとナルトの豊かな金髪を掻き混ぜながら、
「ああ、俺はそんな事思ってないぞ?」
安心させるようににっこりと微笑みました。
大きな手のひらの下で、ナルトはホッと安心したように小さく息を吐いて、イルカのようににっこりと嬉しそうに笑いました。
「一楽のおっちゃんは…?カカシ先生が来てもメーワクじゃないだろ!?」
里で忌み嫌われるナルトの出入りを許している大らかな店主は、「客がメーワクな店があるかい、」と笑いました。
ナルトはその応えにぱあっと顔を輝かせました。
「それじゃあ、それじゃあ、誰もメーワクじゃないってばよ…!次はカカシ先生と一緒にラーメン食えるな…!」
自分の事のように喜ぶナルトに、イルカも胸が一杯になります。
サクラも嬉しそうに微笑んでいました。
サスケはといえば…ラーメンを口の端から垂らしたまま、なんだか眩しげに目を細めて、ぼうっとナルトを見詰めています。その表情の意味がイルカにはよく分かりませんでしたが、ナルトを悪く思っていない事は確かでした。

皆いい子に育っているようだな…!

目頭を熱くしながら、イルカがうんうんとしきりに頷いていますと、
「本当に…迷惑じゃないですか…?」
突然イルカの背後で控えめに窺う声がしました。
ぎょっとして振り向いたイルカの目に、暖簾に映るトゲトゲとした頭髪のシルエットが飛び込んできました。

こ、これはまさか…!

足元を見ると、そこにはやはり剥き出しの生足がにょっと見えていました。
明らかに男の肉付きでありながらも、女性のようにすべすべの足には脛毛の一本もありません。
はたけカカシに間違いありませんでした。
イルカが反応するよりも早く、
「カカシ先生…!」
子供達がワッと歓声を上げます。
イルカの心臓はドッドッと早鐘を打ちました。
一楽のカウンターには自分達以外にもお客さんが座っています。その中には不味い事に妙齢の娘さんもいるのです。勿論カウンターの中には親父のひとり娘でもあるアヤメちゃんの姿もあります。
幾ら自分達が、そして店の親父が、迷惑じゃないと言ってみても、突然全裸の男が姿を現したとあっては店内は大パニックになる事請け合いです。
そしてカカシがまた傷つく事も…

こ、こうしちゃいられない…!

イルカ自身、少々パニックになりながらも、「親父さん、金はここに置いとくから!」と財布ごとカウンターに置きました。
急に立ち上がったイルカに吃驚する子供達に向かい、
「お前らはゆっくり食ってけ〜!お、俺ははたけ上忍に、実は折り入って話したい事があったんだ…っ!丁度よかった…!ちょっとお前らの先生を借りるぞっ、わ、悪いな…!」
いかにも苦しげな言い訳をしながら、イルカは暖簾越しに有無を言わさずにカカシの腕を取って、一目散にその場を離れました。
兎に角、一刻も早く店を離れて人気のない場所へ…!
無我夢中のイルカは途中カカシの格好に気を払う余裕はありませんでした。
だから、「イ、イルカ先生…い、一体何処まで行くんですか…!?」とカカシの焦ったような声にハッと正気に返った瞬間。
イルカは始めてその姿に気付いて、「ええええええ〜〜〜〜〜〜…!?」と素っ頓狂な声を上げてしまいました。

はたけ上忍は何故か…黄金のU首型ランニングの上に、同じく煌びやかに黄金色に輝く腹巻をしていたのでした。




どっ、どうして黄金の腹巻…!?

黄金のパンツ、U首型ランニングに引き続き、新たなアイテム・腹巻の出現にイルカは慄きました。
きっと実際のカカシは黄金の腹巻なんて着用していない筈です。
幾らなんでも突貫工でもないのに、それはおかしいでしょう。
この腹巻もまた自分の瞳が見せる夢・幻覚の類に違いありません。
それは分かるのですが、分からないはどうして腹巻なのかという点です。
そしてどうして会う度毎に装着アイテムが増えていくのか。
あまりに謎過ぎます。イルカは自分で自分がよく分かりませんでした。

やっぱり…俺、ちょっとおかしいんじゃないか…?

激しく動揺しながらも、イルカは念の為に目を凝らし何度も何度も確認しました。見間違いかと思ったのです。
しかしカカシの腹を全ての災厄から守るように、腹巻はその細腰を金の繭のように包み燦然と輝いているのでした。
「イルカ先生…あの、俺の腹がどうかしましたか…?」
じろじろと腹を見詰めてばかりのイルカに、カカシが戸惑ったような声を上げました。
イルカはハッと我に返って、己の不躾な視線に恥じ入りながらも、どうしたものかと悩みました。

今ここで腹巻の出現について言及するべきか否か…

腹巻の一枚くらいが増えて見えたところで、何等大勢に影響はないと思うので、いちいち報告しなくても良いような気がします。

それに…また新しいものが見えたって言ったら、何か期待させちゃいそうだし…

新しいアイテムの出現は、解術に一歩近付いたとのではないかと、カカシに糠喜びをさせてしまう気がしました。
イルカはその事が一番気掛かりでした。

破廉恥の術を解く鍵なんて、俺には全然見えて来ないのに…

少し憂鬱な気持ちになりながらも、でも自分には分からない問題もカカシには分かるかもしれないと思い直し、イルカは正直に見たままの事実を答えました。
「実は…はたけ上忍の黄金のパンツ、U首型ランニングの上に、新たに黄金の腹巻が見えるんですが…」
「ええっ!?」
カカシは酷く驚いた様子をして大袈裟な声を上げました。
「ほ、本当ですかイルカ先生…?俺に黄金の腹巻が…!?で、でも、どうして腹巻なんでしょうか…?」
「さ、さあ…お、俺に聞かれても…」
「てっきり身につけているものが黄金のアイテムに置換されてるのかと思っていたのに…パンツとランニングはまだしも、俺、腹巻はしてないんです…
全く身につけていない、影も形もないものが見えるって、ど、どういう事なんですかね…?」
「え、えーと…」
イルカは言葉に窮しました。
カカシには申し訳ないのですが、何を聞かれても明確な答えを返せそうにありません。
何故黄金の腹巻が見えるのか、自分でもよく分からないのです。カカシを落胆させる事は必至でした。

ああ、やっぱり言わなければよかった…

期待に何処か興奮した様子のカカシに、イルカがちょっぴり後悔を感じた時。
ぐぐう〜〜〜〜〜とカカシの腹が盛大に鳴りました。
吃驚してイルカがカカシの顔を見ますと、カカシは恥ずかしそうに顔を薄っすらと赤く染めていました。

…そういえば、はたけ上忍さっき一楽の暖簾をくぐるところだったんだっけ…まだ夕飯食べてなかったのか…
ど、どうしよう…はたけ上忍に悪い事をしてしまったな…ナルト達の言うように、きっと本当に一楽のラーメンを食べたかったんだろうなあ…
わざわざ夜の街に繰り出して、こっそり中の様子を窺っていたみたいなのに…

カカシの空腹にイルカは責任を感じました。
店をパニックにしてはいけないと、折角ラーメンを食べようとしていたカカシを、自分の勝手な判断で引っ張って来てしまったのですから。
でも今更一楽に戻る勇気も無ければ、他の飲食店へとカカシを誘う勇気もありません。
それ以前に財布を一楽に置いてきてしまったイルカは一文無しでした。
一体カカシの空腹にどう責任を取ったら…と頭を悩ませるイルカは、自分でも知らぬうちに意外な言葉を口にしていました。
「あ、あの、はたけ上忍…な、何もないむさくるしいところですけど、よかったら、俺のうちで飯を食っていきませんか…?俺のうち、ここから近いんですよ…」
突然のイルカの申し出にカカシはぽかんとした顔をしました。
その様子にイルカはドキッとしました。

お、俺、何言ってんだ…?ちゅ、中忍が上忍をいきなり誘うなんて…し、しかも小汚いアパートなのに…し、失礼だろ…!
こ、こんなむさくるしい男の手料理なんて普通食べたくないよな…ってか、それよりも、俺…呆れられた…?

己の浅はかさにイルカが慌てふためいていると、
「あ、あの、イルカ先生さえ本当にいいんでしたら…よ、喜んでお邪魔させていただきます…」
カカシが足の爪先を見詰めながら、小さな声で言いました。
俯いた顔は見えませんでしたが、その耳朶から首筋までが真っ赤に染まっているように見えました。
「は、はい。勿論です。ど、どうぞどうぞ…!」
カカシの返事にイルカは表面上はにっこりと笑って応えつつも、内心は動揺し捲くり、背中には滝のような冷や汗をかいていました。

ま、まさかはたけ上忍が頷くなんて…!というか、冷蔵庫の中に何かあったっけ…?
大丈夫なのか、俺…!?ちゃんとしたものをはたけ上忍にご馳走できるのか…!?

イルカは己の迂闊な発言を呪いましたが、後の祭りでした。




妙な事になったなあ…

イルカは取りあえずお茶の準備をしながら、ちらと背後に目を遣りました。
そこには小さな卓袱台の前にきりりと座るカカシの姿がありました。
黄金の衣服を身に纏い高貴なる輝きを放つ、その白皙の横顔は、イルカのオンボロアパートの一室に酷く馴染まないものでした。
はっきり言って浮いています。
鼠の長屋に間違って、高天原の神が降り立ってしまったかのような…
そんな神の如き人物が、ナルトが醤油を零した薄っぺらな座布団に座っているのです。
そしてその側には壁に寄せただけの書類の山と出し忘れたゴミ袋がふたつ…
カーテンの開いた窓越しにはまだ取り込んでいない洗濯物のパンツがはためいているのが見えました。
しかも丁度溜め込んでいたところを干したものですから、その様子はさながら、パンツの博覧会の様相を呈していました。
とても名高い上忍をおもてなしする雰囲気ではありません。
イルカは居た堪れない気持ちになりました。

しかも…冷蔵庫の中には何もない、ときてるし…

家に帰って来て一番に、イルカは薄く扉を開けた隙間から冷蔵庫の中を確認して、そっとその扉を閉めました。
冷蔵庫の中にあったのは揚げ玉とバター。これで何かができたらマジックを通り越してミラクルでしかありません。
後食べられそうなものといえば、ベランダにプランターで育てているシソと青ネギが、戸棚に乾麺のうどんとラーメンとがありますが…

…す、素うどんとか素ラーメンとか、俺は好きだけど…そ、それをはたけ上忍に出していいものかどうか…
というか、俺から誘っておいて、こんなお粗末な食事ってどうなんだ…?

イルカはお茶をトポトポと湯飲みに注ぎながら、ううむと思わず苦悩の呻きを上げました。
いつもだったらもうちょっとはましなのに、なんだか色々最悪な状態です。

だけど、やるしかない…!幾ら考えたところで食材は増えはしないんだからな…!
中忍なんてこんなもんだと開き直っていこう…!

イルカは心を決めると、カカシにお茶を運びました。
「粗茶ですが…」
湯飲みを卓袱台の上に置きますと、しゃんとしていたカカシがビクッと身体を震わせます。
その強張った表情にイルカはドキッとしました。
「…?あ、あの、どうかしましたか…?」

ひょっとして賞味期限の切れたお茶っ葉でいれたものだと、気付かれてしまったんだろうか…でも他になかったんだもんなァ…

そんな事を懸念して胸をヒヤッとさせるイルカに向かい、カカシが後頭をガシガシと掻きながら恥ずかしそうに言いました。
「…す、すみません…俺…こんなふうに他所に呼ばれるのなんて初めてですから…嬉しくて…ちょっと緊張しているみたいです…」
カカシは右目を三日月に撓ませてにっこりと笑いながら、いただきます、と礼儀正しくお茶を啜りました。
「…すごく、美味しいです。こんな味のお茶初めて飲みました…!」
イルカ先生ってお茶を入れるのが上手なんですね、と感嘆の声を上げるカカシを、イルカはぼうっと見詰めました。
他所に呼ばれるのが初めてだと嬉しそうにするカカシに、なんだか胸が痛みました。
そういえばナルトを初めて家に呼んだ時も、なんだかいつもらしからぬ様子で体をかちこちにしていたっけ、とその時の光景が重なります。
本当に孤独なものは、誰か他人と一緒にいる空間に戸惑いを覚えるものだとイルカは知っていました。
そして戸惑いながらも、普通以上にそれを嬉しく受け止めている事も。
イルカは心の底からカカシに申し訳なさを感じました。

初めて呼ばれたところがこんな小汚いところで…お茶は賞味期限切れで…おまけに振舞う料理は素うどんときてる…

今のイルカにできる事は限られた食材を駆使して、カカシの為に心を込めて冷やし狸うどんを作る事だけでした。
茹でた乾麺を冷やし、プランターの青ネギと冷蔵庫の揚げ玉をパラパラと散らし、麺つゆをかけただけの代物ですが、イルカの貧乏メニューの中でも一押しの一品です。
和の心とも言いましょうか、疲れた時にあったか白米を漬物で食べた時のようなほっとした安堵感と充足感が、この冷やし狸はあるのでした。
「手伝いましょうか」というカカシの言葉を丁寧に辞退して(手伝うようなところがないので)、イルカは一生懸命作りました。
「お待たせしました、こんな物しかなくて申し訳ないですが…」
イルカは頬を赤くしながら、冷やし狸うどんをカカシの前に置きました。せめてもの心遣いにうどんはてんこ盛りです。
「イルカ先生って料理も上手なんですね…!これ凄く美味しいです!初めて食べるなあ…なんて料理なんですか?」
カカシはそんな貧乏料理に目を輝かせながら、にこにこと心底嬉しそうに言いました。
揚げ玉を知らないようで、不思議そうに箸で摘まんではしげしげと見詰めています。
その時ふと、イルカはカカシの横に何故かきちんと折り目正しく畳まれた自分のパンツが堆く積み上げられている事に気付き、目を見張りました。
先ほどまでベランダではためいていた筈のものです。

…俺がうどんを湯がいている間に…気を利かせて洗濯物を取り込んでくれたのか…ちっとも気付かなかった…一体いつの間に…

なんという気さくさでしょうか。さすが上忍とイルカはその手並みのよさに感心しながらも、上忍にパンツを畳ませてしまうとは…と少し青くなりました。
そして今はなんだか胸の奥に温かいものがジワッと広がっていくような感じがします。

もっとこの人にましなものを食べさせてあげたかったな…部屋ももっと綺麗な状態で…

そう思った瞬間イルカは知らぬうちに、するりと意外な言葉を漏らしていました。
「あの…次にはもっと美味しいものを作るので…よろしかったらまた俺のうちにいらっしゃいませんか…?」
イルカの言葉にカカシは一瞬動きを止め、次にボンと顔を赤くすると、「は、はい…喜んで…」と小さな声でゴニョゴニョと言いました。
その返事を聞きながら、ハッと正気に返ったイルカは愕然としました。

お、美味しいもの作るって…きゅ、給料日まで、俺、金なかったんじゃなかったっけ…?

ぴゅるり〜と冷たい風がイルカの心を吹き抜けました。



続く


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