濁った水に月宿る

ねえねえ、
卵が先か。鶏が先か。
どっちが先なの?
教えて、イルカ先生。

俺がアカデミーの木の上でイチャパラを読みながら寛いでいると、そんな子供達の声が何とは無しに聞こえてきた。一体子供というのは何というくだらないことを尋ねるのか。考えても仕方の無いことを考える子供の無駄なバイタリティーに辟易しながら、俺は教師にはなれないなァと苦笑した。

子供達の他愛が無いながらも厄介な質問に、「イルカ先生」なる人物は適当に流す風でもなく、う〜んと唸りながら腕組をした。そして子供達の目線の高さまで腰を落とすと、朗らかに言った。

そうだなあ、先生は鶏の方が先だと思うぞ。だってな、お父さんとお母さんがいないと、卵から生まれてくるひよこが可哀想じゃないか。

自分でそう言っておきながら、「イルカ先生」は皆はどう思う?と子供達に訊いた。すると子供達もそうか、そうだよねぇ、お父さんとお母さんがいなくちゃねえ、ひよこは赤ちゃんなんだから、と至極納得した様子で、僕もそう思う、私も、としきりに頷いていた。子供達は自分達でその解答を導き出したかのように、誇らしげに顔を輝かせていた。

俺はその話を盗み聞きしながら、「イルカ先生」と呼ばれた人物をぼんやりと見つめていた。
黒い括り髪、鼻の上の傷。そして柔らかく綻んだ顔。
子供達のくだらない質問にも「分からない」とは言わない、至極真面目な人。
だからその時俺は思ってしまったのだ。

俺のささやかな疑問にも、答えをくれるんじゃないかな。
例えそれが決して答えようのない問題であっても。

「イルカ先生」なら。

何時か話しかけてみたいな。

そんな考えが俺の頭を過ぎる。しかし、それはその時だけの漠然とした思い付きのようなもので、実際に実行に移す気持ちはなかった。それくらい目の前の「イルカ先生」と俺は接点が何もなさそうだった。それなのに何と不思議な巡り合わせなのだろうか。その後間もなく俺は極自然にイルカ先生と会話を交わすようになるのだ。その時俺は自分は決してなれないだろうと思っていた、「先生」というものになっていた。正確に言うと下忍担当教官に。そして俺の受け持った下忍こそが、イルカ先生のアカデミーでの教え子だったのだ。
最初に声をかけてきたのはイルカ先生の方だった。よろしくお願いします、と頭を下げるイルカ先生に天啓を感じた。よろしくしてもらおう、と俺は思った。「こちらこそよろしくね?」俺の言葉にイルカ先生は迂闊にもニッコリと笑顔を浮かべた。

その日から俺はイルカ先生に付きまとった。そして些細な事にもイルカ先生に解答を求めた。それは本当にどうでもいいような事だった。

「イルカ先生、俺、昼飯を月見ソバにしようか豚汁定食にしようか迷ってるんですけど、どっちがいいと思いますか〜?」

食堂で俺が訊けば、イルカ先生は少し呆れたような顔をしながらも、「朝食は何を召し上がったんですか?」などと真面目に返してくる。目玉焼きとご飯でしたと俺も律儀に答えれば、イルカ先生は何やら考えながら真面目な顔で言う。

「そうですね...月見ソバだと卵が重複してるし、野菜が足りないから豚汁定食がいいと思います。」

そう言いながらもイルカ先生は必ず最後に尋ねるのだ。

「カカシ先生はどう思いますか?」

俺は愛想のいい笑顔を浮かべながら、そうですねえ、とわざとらしく首を傾げる。

「やっぱり月見ソバにします。定食は量が多いから。」

悪気のない様子で俺はしれっと告げる。イルカ先生は一瞬目をぱちくりさせながらも、すぐに笑顔を作って答える。それはお決まりの言葉だった。

「カカシ先生がいいと思う方がいいですよ。」

またある時は純情なイルカ先生をからかうように、女事情について判断を仰ぐ。

「愛がなくてもいいから、一度だけやヤッて欲しいって女に付き纏われてるんですけど、ヤるべきですかね〜?」

そんな悪戯けた質問にもイルカ先生は怒ることなく、一生懸命考えてくれる。顔を真っ赤にしながら。

「あ、愛がない性交は、本当に好きな人ができた時...後悔の種にしかならないと思います。だから...あの、しない方が...」

イルカ先生はゴニョゴニョと恥ずかしそうに言いながら、それでも最期の判断は俺に委ねる。

「カカシ先生はどう思いますか?」

俺はなるほど、と納得したように頷きながらも、「う〜ん、でも据え膳食わずはなんとやらでしょ。そこまで言っている女に恥かかせるのも可哀想ですし...してあげようと思います。」と然も女を思いやっているかのように答える。
イルカ先生は僅かに眉を顰めながらも、「カカシ先生がいいなら...その方がいいと思います。」と溜息まじりに言った。

いつもそんな感じだった。俺はイルカ先生に解答を強請りながらも、イルカ先生が出した解答とは反対の解答を取った。勿論それは故意的なものだった。だけどイルカ先生はそんな俺に何の異議も唱えない。怒るようなこともしない。カカシ先生がいいなら、その方がいい。いつもイルカ先生はそう言った。俺は自分が好きなようにしているのに、何故か苛立っていた。だが、それがどうしてなのか俺には分からなかった。


「ねえ、イルカ先生。訊きたい事があるんですけど。」

その日もいつもの如く、俺はイルカ先生の元を訪れていた。イルカ先生はアカデミーの職員室で一人残業をしていた。突然窓から現われた俺に、イルカ先生はギョッとしたようだった。

「ああ、驚かせちゃいました?スミマセン、こんな夜分に窓から...」

俺の謝罪の言葉にイルカ先生は眉を顰めた。

「...そんなことに驚いたんじゃありません。」

イルカ先生は俺の事を心配そうに見つめながら言った。

「カカシ先生、何処か怪我をしてるんじゃないですか?」

その言葉に俺は薄く笑った。そうか、イルカ先生はこの姿に驚いていたのか。

「いいえ〜、何処も怪我してませんよ?俺こう見えても、ビンゴブックに載るほどの凄腕なんですよ〜?」

俺は大きく腕を広げて言った。赤く濡れるその体を見せつけるように。

「これはね、全部返り血です。今日は派手に殺しましたからね〜。大名の圧制に叛乱を起こした村があってね、皆殺しです。生まれたばかりの赤子まで。簡単な任務でした。ランクもBでしたしね〜。」

饒舌な俺にイルカ先生は何処か困ったような顔をしていた。かけるべき言葉が見つからないようだった。そんなイルカ先生の様子に構うことなく、俺は言葉を続けた。訊きたい事があった。それを早く言いたかったからだ。

「別に殺すことに今更何の感情も湧かないんですけど、時々ねえ〜、本当に時々、思う事があるんです。」

俺のやってる事は良い事なのか、悪い事なのか。
どっちだと思いますか?イルカ先生。

俺の言葉にイルカ先生は瞬間表情を失くした。難しい質問をしているという自覚はあった。俺がこれまで生きてきた中で本当に時々、この疑問が頭を掠めたが、自分でも答えが分からなかった。だからイルカ先生に訊いてみようと思っていた。あの時。初めて会った時から、イルカ先生ならきっと答えてくれると思っていた。本当はこの事だけを、俺は訊きたかったのかもしれない。

少し考えて、イルカ先生は差障りの無い返事をした。

「これは任務ですから、カカシ先生が気にする事は...」

それは欲しい答えじゃない。

「違うよ、イルカ先生。俺が訊いてるのは良いか悪いかだよ。どっちかってことだよ?」

イルカ先生は観念したかのようにフーッと長い溜息をつくと、目を逸らすことなく俺を見つめながら言った。

「俺は...良い事、だと思います...。任務をちゃんと遂行する事は、良い事だと。」

イルカ先生の選んだ解答を聞いて、俺はいつものように反対の解答を選ぶ。

「へえ、そう?俺はそう思わないな。抵抗する術を持たない女子供を殺すのっていい事?赤子がどんな罪を犯したっていうの?罰せられるべきは俺じゃないの?あんたは聞いた事がある?子供の命乞いをする母親の泣き声を...」

これは悪い事じゃないの?
俺は、本当は。

その時イルカ先生が低い声で言った。

「うるさい....」

瞬間俺は目を大きく見開いた。今イルカ先生は何て言った?いつもならイルカ先生は、俺がいいなら、その方がいいって言うのに。

イルカ先生は怒気を孕んだ声で一喝した。

「煩い...!あんたがどう思っても...他の奴らがどう思っても...俺は良いと思うんだ!あんたが自分を、自分自身を許せなくても...誰もあんたを許さなくても....俺は....俺は許すんだ。た、たまには....」

そこでイルカ先生は一旦鼻水をズズッと啜った。

「たまには俺の言う事を聞きやがれ!」

そう叫ぶと同時にイルカ先生の瞳から涙がブワッと溢れた。
俺の心の内側も熱いもので濡れていた。やっぱりイルカ先生はすごいと思った。
そうだ。俺はずっとこの答えが欲しかったのだ。
多分あの日、イルカ先生に会った時からずっと。

この答えを、イルカ先生から。

「うん、聞く。」

俺は短く言ってイルカ先生を抱き締めようとして、その手の汚れに躊躇した。このまま抱き締めたらイルカ先生も汚してしまう。

抱き締めてもいいのかな。
こんなに汚れていても、あんたを抱き締めていいの?

俺はそんな気持ちでもう一度尋ねる。

「イルカ先生、水清ければ魚棲まずって言うでしょう?反対に水清ければ月宿るとも言うよね?」

俺は濁った水の中でしか生きられない。
でもあんたは綺麗な水の中で綺麗な心のまま生きている。

俺はどうしたらいいの?
どうしたらあんたと一緒にいられるの?

「イルカ先生はどっちが本当だと思う?」

俺の真剣な問いにイルカ先生は呆れたように笑って見せた。

「どっちも間違ってると思わないけど、俺はもう一つあると思います。濁った水であっても、月は宿ると思いますよ。」

そう言って俺の心臓の上を指でトンと突いた。

俺は今度こそイルカ先生を抱き締めていた。

汚れた水の中にあっても、俺を綺麗だといってくれるその愛しい人の体を。



終わり

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