堕落


「カカシよ、お前は堕落した。」

風前の灯火の様に覚束無い自分の命を前に、それでも男は臨戦の姿勢を崩さずに、吐き捨てるように言った。
その腹部からはドクドクと血が流れ落ち、足元に小さな血溜りを作っていた。
対峙するカカシは、その挑発的な言葉に眉一つ動かさずに、冷静に言い放った。

「抜け忍のアンタに言われたくないね。他に言い残すことは?」

アンタはここで死ぬんだから。

男は歪んだ笑みを浮かべた。人の悪い笑みだった。

「俺達忍は乱世の中でしか生きられない。戦いの中でしかその真価を発揮できない。俺は木の葉が平和を謳う度、流血を求める自分が奸賊のように思われてならなかった....戦いの中では、俺達は英雄だというのに。だから平和という壁に風穴を開けてやろうと思ったのだ。それがどうして悪い?」

カカシは無言のまま、ゆっくりと間合いを詰めた。

「俺達は戦う以外、知る必要は無いのだ。カカシよ、以前のお前なら俺の言うことが分かったはずだ。他の凡庸な連中とは違って、忍の中でも天才といわれたお前ならば。だが、お前は堕落した。平和に身を浸し、剰さえ、あのうだつの上がらない中忍風情に現を抜かして.....。」

男が全てを言い終わらぬうちに、小刀を握ったカカシの右手が、弧を描くようにして男の喉を切り裂いた。途端に鮮血が飛沫を上げて風に舞った。最早声の出せなくなった男は、断末魔の叫びを上げることも叶わず、金魚のように口をパクパクとさせながら、白目を剥いてその場に倒れた。男の体がぴくぴくと痙攣を繰り返す様を、カカシは憐れみの目で見つめた。そして動かなくなった男の背に小さく呟いた。

アンタこそ、分からなかったんだねぇ。




任務を終えたその足で、カカシはイルカのアパートへ向かった。

「おかえりなさいっ、カカシ先生!任務ご苦労様でした!」

扉を開いたイルカが、満面の笑顔でカカシを出迎えた。

「先に風呂にしますか?飯の用意もできてますけど。今日はカカシ先生の好きなサンマですよ。」

どっちにします?

カカシは答えるよりも先に、イルカを抱きしめていた。

「カ、カカシ先生...!?」わたわたとするイルカに苦笑しながらも、カカシはそのふくよかな唇に口付ける。

イルカの柔らかな笑顔が。
イルカの傍らで共に過ごす優しい時間が。

一瞬でも長く続くようにと強く願う。永遠を望むのは無理にしても。

そのためなら何でもするだろう。
平和のために、という大義名分のためにではなく、
イルカのために。
イルカと過ごす時間のために。

あの男は分からなかったのだ。
かつての自分が分からなかったように。
この気持ちを堕落だと、嘲笑いたければ嘲笑えばいい。

だが、それは堕落じゃなくて。

祈るような、神聖な気持ち。

願わくば、少しでも長く、この時間が続かんことを。優しい時間が続かんことを。



              終
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