第九回

 

 

イルカが再び里に戻って来たのは、それから六年後の事だった。その時暗部の男は遠隔地の長期任務に赴いていて、結局二人が再会したのは、更に三年後の事だった。

約束の日から十年近くが過ぎていた。

再会したのは思い掛けない場所だった。

アカデミーの教職についていたイルカは、その日生徒を引率して鴨川シーワールドへ遠足に来ていた。

シーワールドといえば目玉はオルカショー。

イルカとオルカ。似ているけれど、オルカは海のギャングと呼ばれる獰猛な生物だ。

一文字違いで随分と違うもんだなー…

イルカはサイドプールできゅいきゅい鳴く、自分と同じ名の海洋生物を眺め苦笑した。

名は体を表すというが、自分の名が「オルカ」だったら、もっと屈強な男にでもなっていたんだろうか…

馬鹿な事を考えながら、

「足元が濡れているから走るなよ!」

ショーステージ前の階段席へと、きゃあきゃあはしゃぎながら急ぐ子供達の背中に向かい、イルカは注意を促した。

「はあい先生、」

今度は打って変わってしずしずと移動する子供達に、思わずフッと顔を綻ばせる。

なんとか開演までの間に子供達を大人しく席に座らせる事に成功すると、他の教職員に合図して、自分も空いた場所に腰を下ろした。

開演の音楽が鳴り、飼育係のお兄さんと共にはやくもシャチが巨体を現す。ちょっとジャンプしただけで、ざぶんと物凄い水跳ねだ。前の子供達はずぶ濡れで悲鳴にも似た声を上げている。飛沫は階段席の中段に座ったイルカの方にまで飛んで来た。

「わ、すごいな…」

イルカが思わず腕を上げて水を避けるような仕草をすると、突然横からサッとハンカチが差し出された。

隣りには誰も座っていなかった筈なのに、いつの間に…

ギョッとしてイルカが隣りに目を向けると、そこには顔半分を口布で隠し、更に斜めにずらした額当てで左目を覆った怪しい出で立ちの銀髪の男が、背中を丸めて静かに座っていた。

忍服を着ているが、見た事もない男だ。

せ、折角の親切だし…このハンカチ、受け取った方がいいのかなあ…でもこの人、なんか不気味でいい感じしないんだよなあ…

イルカが躊躇っていると、男がぼそりと呟くように言った。

「あんたねえ、焦らしプレイにもほどがあります。そりゃ最初はちょっとドキドキしましたけど、幾らなんでも十年は待たせ過ぎです。」

「は…?」

覚えのない言葉にイルカは目が点になった。

突然何を言ってるんだ、この男…?な、なんか危ねえ…

イルカがそろ〜りと尻を上げて横に移動し、少し距離をとろうとすると、男も何食わぬ顔でツツツと空いた分こちらへ詰めて来る。

「なんで逃げるの、もう逃げないって約束したでしょ。まさか忘れちゃった?」

ギラリと剣呑な光を放つ右目で睨みつけられて、イルカはようやく朧げながらこの男が誰なのか分かってきた。

独特の口調に、傲慢な態度。豊かな銀髪の下に僅かに覗く眠たげな瞳。

十年前の、あの時の暗部の…

いつ里に戻って来たのだろうかとイルカは男の顔をジッと見詰めた。

守れなかった約束を忘れた事はないが、まさか隣の男がその約束の相手だったとは、あまりに様子が違っていたので気付かなかった。

暗部装束じゃない所為もあるが、それにしても…

「あ、あんた、老けましたねえ…」

しみじみとイルカが呟くと、男は酷く傷ついたようだった。

「開口一番がそれですか。もっと他に言う事はあるでしょう、本当は会いたかったとか、いつも俺の事を夢に見ていたとか、」

「はあ…」

十年の歳月を経ても、中身は全く変わっていないようだ。

相変わらずの男のふざけた言動に、十年経っても物慣れないイルカは戸惑った。

もし今度会えた時は謝ろうと思っていたのに、すっかり出鼻を挫かれてしまった…

イルカは困った顔をして鼻先をぽりぽりと掻いた。

どう答えていいか分からず、黙ったままのイルカに、

「なんで何も言わないんです?あんたって人はもう…」

ばかー!と男がぽかぽかとイルカの胸板を叩いてくる。

「ちょ、ちょっと落ち着いてください…」

流石に生徒の目が気になったイルカだが、この男の怒りも尤もだと思うので、強硬な態度に出られない。

何しろ、自分が一方的に大切な約束を破ったのだ。

ふざけているように見えるけれど…俺はこの人を深く傷つけたに違いない…

俺はこの人から逃げたんだ…もっと詰られて当然なのに、それをこの人は厳しく問い詰める事もせずに…

イルカは堪らない気持ちになって、男の拳をハッシと受け止めると、深々と頭を下げた。

「十年前、約束を破ってすみませんでした…!」

ずっと謝りたかったのだ。イルカはこの男に、ずっと。

謝って許される事じゃないけれど。

頭を下げたままのイルカに男は静かに言った。

「悪いと思っているなら顔を上げてください。」

すぐさま顔を上げたイルカの額を、男の指先がこつんと小突く。

「十年の遅刻だゾ☆」

男は口布の下で口を尖らせながらも、怒っていない事を伝えるように、えへっとイルカに笑ってみせる。

ふざけて軽く流してくれるのが、この男なりの優しさ…なのかもしれないが、猫背の覆面男がえへっと小首をかしげる様は、優しさ云々を伝える以前に何処か薄ら寒い。

な、なんかこの人…十年の間に更にマイペース度が上がった感じだな…

ここは笑うところなのかどうなのか。

顔を引き攣らせたままのイルカに、

「は〜…あんたって相変わらずノッてはくれないんですね〜…」

ま、いーですけど、俺にはちゃんと乗ってくださいね〜と男はわけのわからない事を囁き、愉快そうにククッと笑うと、今度は真顔で迫って来た。

「え〜と、俺が言いたかったのは十年の遅刻って事で、寛容にも許してあげようって事です!火影様に聞きましたが、あんたが遠隔地に飛ばされたのも、元はといえば俺の所為ですしね…でも、今度こそ約束を果たしてもらいますよ。」

「え…」

「大賀の死の真実を、今度こそ教えてもらいますからね…!」

「ええ…っ!」

驚くイルカの波立つ心を表すように、クライマックスを迎えたオルカショーは、先ほど以上に激しい飛沫をザップザップと遠くまで飛ばす。

きゃあきゃあとあちこちで歓声が上がり、イルカの座る場所にも大粒の飛沫が届いた。

だがイルカは少しも濡れる事はなかった。男がサッと手持ちのビニール傘を広げ、飛沫を防いでくれたからだ。

その傘の影に隠れて、素早く口布を下ろした男にちゅっと唇に口付けられた。

咄嗟の出来事で防ぎようが無く、イルカが防いだ時には男の唇が離れた後だった。

飛沫を受けるよりも始末が悪い。

「な…ッ…あっ…ど…!」

激しく狼狽して赤くなったり青くなったりするばかりのイルカに、男は傘を握らせるとしれっと言った。

「この傘はあげます。実は俺帰って来たばかりで、火影様に呼ばれてるんで、残念ですけど今日のところはこれで…」

男は立ち去り際に一度だけ振り返ると、

「直にあんたをアッと驚かせるような出来事がありますよ〜楽しみにしていてくださいね〜!」

クフフと口に手をあて笑い、意味深な台詞を残していった。

これ以上吃驚するような出来事なんてあるんだろうか。

最早それは楽しみにするどころの話ではない気がする…。

い、一体何があるっていうんだ…!?

イルカ模様のビニール傘を広げたまま、イルカは血の気の引いた顔で呆然と立ち尽くした。

オルカショーはとっくに終っていた。

 

 つづく